谷川渥「形象と時間」

一週間前に読んでいたのだが、ちょっと忙しくて今頃レビュー。
タイトルからも読み取れるように、時間と美学がテーマである。最初に言ってしまうと、この二つのテーマに引っかかる人は絶対に読んでおいた方が良い。示唆に富むだけなく、時間と美学というのをきちんと絡めている本は少ないからである。

本書は二部構成になっていて、第一部は物質的空間として立ち現れる芸術と時間。第二部は表象作用として立ち現れるそれをテーマとして扱っている。
第一部の骨董の章では、小林秀雄の骨董を美の近代的鑑賞のアンチテーゼとして語ったことを批判する。そして骨董とは美の所有する行為ではなく、時間を所有する行為であると結論づける。最初からニヤリとさせられる切れ味の良い論理展開だ。
続いて崩壊像の章では、装丁にもなっているサモトラケのニケ、ミロのヴィーナスの魅力を、欠損しているが故に立ち現れるものだと語る。またその崩壊には時間が伴っているのだ。確かに崩壊した物は、我々に時間を感じさせ、それ故に美を感じさせるのかもしれない。これはある種の崇高美(エドマンド・バーク)であろう。
第一部の最後では、カイヨワの「遊びと人間」の遊戯の四分類を補足するかたちで「造形遊び」が考えられないだろうかと提案している。粘土なんかをこねているうちに、ある種の形をつくってゆく遊びだ。強引にミミクリー(模擬)の分類に入れることができなくもないが、まったく新しい形を想像する芸術もあるのだから、新たに一項目設けるのも悪くないようだ。人類の生産物のほとんどは、ただ生存するという目的以外に使われている。となれば、この「造形遊び」こそが我々の本質であるとも言えるだろう。

第二部はパースの記号論に始まり、芸術や写真などの像が表象するものはなんなのかという所に迫ってゆく。切り口は「馬のエクリチュール」だ。
写真家のエドワード・マイブリッジが馬の連続写真を撮ることに成功して、それがいかに絵画に影響を与えたかという系譜学的分析を含め、いかにそこから逸脱してきたかが語られる。ジェリコーの描いた「エプサムの競馬」は写真と比べると大間違いであるが、疾走感はある。というより実は写真の通りに描くと、まるで止まっているかのように見えてしまうのだ。その駆けてゆく時間をいかに表象するか、そこに芸術家のセンスがかかっている。
そこにおいて、未来派の「走っている馬には四本ではなくて二十本の脚がある」という宣言がインパクトを持ってくるわけだ。

時間という得体の知れないものが、実は深いレベルで表象芸術とリンクしてくる。本書を読んだ後、絵や彫刻などの静止している芸術(もちろん漫画なんかも)を見るとき、そこに時間が存在することを改めて感じられるようになるだろう。はたして時間を感じているだろうか? もし感じているとしたら、なぜ時間を感じるのだろうか?

文庫、単行本、共に絶版のようで……