サイモン・シン、エツァート・エルンスト「代替医療のトリック」

恐ろしい本である。不治の病や、慢性の持病を抱えてる人は読まない方がよいかも知れない。それを始めに警告しておく。

さて本書はいわゆる通常医学でない代替医療が「ほんとうに効くのか?」を科学的に追求した内容だ。俎上に挙げられるのは主に鍼、ホメオパシーカイロプラクティック、ハーブ療法で、それらの歴史から現在の実験結果を紹介している。
結論から言えば、(一部例外はあるものの)ほとんどすべての代替医療には科学的見地に基づいた効果はないと断じている。あるとすればそれはすべてプラセボ効果だと言うのだ。
そして仮に代替医療が無害であったとしても、それらによって通常医療を受ける機会が減じる可能性がある、と糾弾している。その説得として瀉血の話を持ち出し、エビデンスのない医療がいかに危険であり、二重盲検に基づいた実験の統計がいかに大切かを説明してみせるのは、半ば脅しもはいりつつも、巧い。
また、あくまでその医療に科学的効果があるかどうかを問題にするのではなく、もしかして神秘的な力で効くかも知れないということを前提として実験結果を読み解いている姿勢は大変真摯である。

自分もどちらかというと科学主義の立場をとる人間であるので、効果がないものは信じられない。
「薄めれば薄めるほど効く!」というホメオパシーは、そりゃ明らかに効くわけないだろとは思っていたけれども、日本人としては鍼は何となく効くモノだと思っていたし、また名前をよく聞くカイロプラクティックなんかもエビデンスがあるものなのだと思いこんでいた。それらがプラセボ程度の効果しかないというのは実にショックだった。
しかし改めて考えてみると「薄めれば薄めるほど効く!」も「人体に鍼を刺すと治る!」というのも、初めてその医療を目にする人からすれば似たようなモノなのかも知れない。

それでも読了後にもやもやした気分が残るのも確かだ。
仮にプラセボ効果しかないとはいっても、良心的な代替医療には社会的価値はある。それらをハシから脱神話化してゆくのも倫理にもとるだろう。
代替医療の神秘性がプラセボ効果を高めているのだとすれば、それらをあけすけに「効かない」と断じてしまうことによって、プラセボ効果が得られなくなり、本当に全く効かなくなってしまうからだ。
かといってそれらの神秘性を守り続け、保険適用し、国民の税金でカバーするのか?というのもまた難しい問題だ。

無論、根拠となっている実験の方法などに文句を付けることはできなくもない。それであっても本書へのナイーブな批判は即ブーメランとなって返ってくる。少なくとも要所要所で論点が押さえられ、反論に対する再反論の理論武装もしっかりしている。
本書は代替医療からプラセボ効果を取り払ってしまう恐ろしい本であるが、いまだに18世紀の動物磁気まがいの代替医療が横行する昨今、現実に目を向けて読んでおくべき本である。

代替医療のトリック
代替医療のトリック
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サイモン シン エツァート エルンスト
新潮社
ASIN:4105393057

フェリシア・ミラー・フランク「機械仕掛けの歌姫」

19世紀の文学における人造美女に焦点をあてた文学研究書。人造美女の、しかも声に焦点を当てているあたりがキモである。
訳者あとがきにもあるように『イノセンス』や『初音ミク』を有する我国がこれをスルーしてよいわけがない。タイトルからして「どうみても初音ミクです。本当にありがとうございました」だ。ミッシェル・カルージュ『独身者の機械』の系譜は、まさに今、花盛りなのである。

人造美女ときたら普通はヴィジュアル先行と考えがちだが、本書でのコアとなるのは音声である。まずもって他者と自己との境界をヴィジュアルで得るおなじみの「鏡像段階」以前に、母からの呼びかけを中心とした「音響の鏡」の認識があるというディディエ・アンジューの理論を強調する。

一方で女性に音声、男性に書き文字と属性を振り分ける二分法の危険性の指摘も忘れない。近代哲学から現代思想の潮流を踏まえた上で語っており、信頼できる書き手だ。
その中で19世紀文学における女性の声は、メスメリズムの如き神秘性を帯び始める。俎上にのせられるホフマン『クレスペル顧問官』では、ソプラノ歌手とヴァイオリン(人間の声に似せて作られた楽器である)が照応する。

そして本来、女声に与えられた神秘的な声は、カストラートのようなある意味人工的で非人間的な音声により強く象徴されてゆく。それは天使の歌声であり、性別を超越した声なのだ。

最後に控えるのはヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ』。まさにテーマそのものの小説だ。たしかに本書で指摘するとおり『未来のイヴ』では音声がことさら強調される。蓄音機の発明がリラダンに『未来のイヴ』を書かせたというのもあながち間違いではないだろう。

さて「マシーン・セリバテール」の作詞者としては本書は絶対に外せない一冊であるし、作詞をする前に邦訳されていればと思う部分は大いにある。ちなみに「マシーン・セリバテール」では『未来のイヴ』『KEY THE METAL IDOL』『イノセンス』『初音ミク』に共通する系譜、声(魂)の主たる存在の隠蔽性を裏テーマにしている。
しかしながら、もしかすると現代日本潜在的にこの本の研究を完全に超えてしまっているのかも、という気持ちもある。著者には現状の日本の状況を踏まえた上で続編を書いてもらいたいものだ。

いずれにせよ興味深い本ではある、気になっている人は必読のこと。

余談

レーモン・ルーセル等の訳書がある新島進の訳で『独身者の機械』の新訳が進行中とのこと。今年はマシーン・セリバテールくるよ!

「サバト恠異帖」「相対主義の極北」「スラデック言語遊戯短編集」「麗しのオルタンス」「シュルレアリスム絵画と日本」「S-Fマガジン 2010年 05月」

日夏耿之介サバト恠異帖」

澁澤龍彦がオカルトの師匠と呼ぶ日夏耿之介。そのまさにオカルティズム中心の一冊。日夏自ら「ゴシック・ロマン体」と名付けた、典雅な文体で綴られた文章は、どこを抜き出しても詩のようである。西洋のオカルト研究もさることながら、泉鏡花の論評には力が入っている。

入不二基義相対主義の極北」

相対主義実在論を対立させるのではなく、互いを考え抜くことでその極北(ウルティマ・トゥーレ)を目指すという野心的哲学書。一見単純なものごとを徹底して考え抜き、それをわかりやすく文章化するという筆致はさすが。ただ7章以降の論議は、少し首をかしげる点がないでもない。
読む側としても単純に鵜呑みにするのでなく、対決しながら読んで欲しい本だ。

ジョン・スラデックスラデック言語遊戯短編集」

途中まで読んでたのをすっかり忘れてて3年ごしの読了となってしまった。
場所も、人間も、その関係性も、すべてが数式となりパズルのように編まれている作品が多く、実験的でありながら形態として美しい。「非12月」などは白眉。

ジャック・ルーボー「麗しのオルタンス」

数学者にして詩人、そしてウリポのメンバーであるジャック・ルーボーの実験的ミステリ。というかミステリと言うべきなのか、本筋とは関係ない脇道の物語が再物語化されて輪郭が現れるというようなスタイルになっている。
最初におきる事件は『土か煙か食い物』か!ってツッコミをいれますよねー

速水豊「シュルレアリスム絵画と日本」

古賀春江、福沢一郎、三岸好太郎、飯田操朗といった日本のシュルレアリスム作品に現れるイメージを懇切丁寧に追跡してゆく。その執拗さは相当なもので、彼らが読んでいたであろう本から元ネタを探し出し、それらと比較することで作家の意図を探ってゆく。
ストーカー的(褒め言葉)とも言える探偵じみた絵画批評の方向性としても面白い。ほんとよくぞ個々まで資料を探し出せたものだ。

S-Fマガジン 2010年 05月号」

38年ぶりのクトゥルー特集ということで購入。さまざまな毛色のクトゥルー短編集が読めるというのは嬉しい。特にエリザベス・ベア『ショゴス開花』が、ちょっと伊藤計劃っぽくて面白かった。
また第5回SF評論賞として岡和田晃伊藤計劃評が載っており、少々戦争ネタに拘泥している感がないでもないが、よく書けていると思う。どうにも泣けた。

小松和彦「神隠し―異界からのいざない」

神隠し」とは何か?その事例をあげ、分類し、それらを民間信仰とつなげつつも具体的な意味づけを試みている。薄いながらも大きな視点を持った本である。

まずはいくつかの事例が挙げられ、それらから神隠しを4つのタイプに分類している。
・失踪者が無事に戻ってきて、体験談を話す(A1)
・失踪者が無事に戻ってくるが、記憶がない(A2)
・失踪者が帰ってこず、事件自体はフェードアウトする(B)
・失踪者が死体となって発見される(C)
以上の4タイプである。
それを踏まえた上で、民間伝承や神話的世界をからめながら分析してゆく。
個人的に興味を惹かれたのは終盤にでてくる「神隠し」の社会的意義だ。もしかしたら本人の気まぐれからなる単なる失踪を、天狗の仕業などということにより、再び帰ってきたとき、すべてを免責して受け入れるという機能が「神隠し」にはあった。
連れ去られるべき異界を失った現代人は「神隠し」ではなく、蒸発というかたちで失踪する。しかし、そこには再び受け入れるという救済システムが欠けてしまっていることを著者は嘆く。
また、読み進めるなかでしばしば連想させられたのが『電脳コイル』だ。あそこでのメインの物語は完璧にこの本で語られている内容そのものである。ARとはいかずともインターネットによって再び数々の異界が作られつつある今、単に物理的な失踪ではない新種の「神隠し」が生まれ、社会システムの機能として組み込まれてゆくのではないだろうか。そこには元来あったような救済としての役割が宿ることを期待したい。一度「あちらの世界」のイリーガルになったとしても、再び戻ってこられるように。


小林泰三「セピア色の凄惨」

大変不快な気分にさせられる連作短編集。
これまでの作品のように、SF的なことも超自然的なことも起きないのにもかかわらず、異様な世界に連れ去られる感覚を得られる。これまでの作品にも感じられたテイストではあるのだけれども、ガジェットに頼っていない分、純粋にその厭らしさを味わうことができるだろう。

どの作品も、ある種の感覚というか妄念を無理矢理膨らました一発ネタ的ではあるのだが、ここまでキチガイじみた心情を執拗にロジカルに描写するという姿勢には恐れ入る。狂った登場人物が妙に論理的なのが、また厭な感じを増長させるのに一役買っているのだ。コミュニケーションがとれそうでとれない、あの歯がゆい感じがずっと続いているような、なんとも気持ち悪い感じ。それが低音で鳴り続けながら、物語は冷酷に破滅へと向かってゆく。

さらりと読めてしまうのにおぞましい読後感。読んでいてムカムカするような小説が大好きな人には大変お勧めだ。

辻由美「火の女 シャトレ侯爵夫人―18世紀フランス、希代の科学者の生涯」

今でも読まれているフランス語版のニュートン『プリンキピア』の序文にはこうある。
「ふたつの驚異がなされた。ひとつは、ニュートンがこの著作をあらわしたことであり、もうひとつは、ひとりの女性がそれを翻訳し、解明したことである」
これを記したのは、かのヴォルテール。そして翻訳したのが本書の主人公シャトレ公爵夫人(以下、本書にならってエミリと呼ぶ)だ。自分はヴォルテールがらみからエミリを知っていたのだが、彼女を中心にしてみた18世紀というのは本書で初めて体験したことだった。
少女時代から『アエネイス』を翻訳するほどの語学力を持ち、なによりも物理と数学に夢中になった少女が、結婚し、幾つもの恋愛を経て、時にはギャンブルに夢中になりながらも、なによりも科学の発展に貢献したというエピソードがつまらないわけがない。彼女を中心として人間関係を負ってゆくことで、18世紀における世界像や科学者哲学者の主張が立体的に見えてくる。
エミリの生き方でなにより感心させられるのが、燃え上がるような情熱を持っているにもかかわらず、科学的視線は常に冷静に保ち、自分が論理的に導いた結果を信じて行動していたことだ。ゆえに自分の意見と異なる相手ならば、それがアカデミーの重鎮であっても真っ向から挑んでゆく。その意志を曲げない力強さは見倣いたいものである。
また天才肌らしい、どこか抜けた天然なエピソードもあり、エミリ萌え目線から読んでも面白いだろう。生涯の相方であったヴォルテールとの、ある部分はそっくりである部分は真逆のコンビはキャラ造型としても最高だ。
18世紀に、科学史の中に燦然と輝く女性がいたということを知るだけでも読む価値がある一冊である。

これまで読んだのをまとめだし part3

ティエリ・グルンステン「線が顔になるとき」

西洋圏の人文科学を使ったマンガ研究。顔が主なテーマになっているのだが、マンガにおいては顔を描き込むほど生の表現から遠ざかるというパラドックスの指摘が興味深い。このあたりは顔の認識とも関わっていそうだ。
またグルンステンが来日した明治大学のシンポジウムを見て再確認したことだが、日本のマンガ、バンドデシネグラフィックノベルの隔たりはまだまだありそうだ。

アラン・ムーアフロム・ヘル

現存する切り裂きジャックの資料に矛盾しないかたちで描かれた超絶技巧のストーリー。びっしりと描き込まれた台詞と、注釈は、コミックというより文学的快楽をもたらしてくれる。
エレファント・マンアレイスター・クロウリーオスカー・ワイルド等々のカメオ出演にも思わずニヤリ。

円城塔烏有此譚

烏有=不在=穴をテーマにした不思議な味わいの小説。本文以上に論理哲学論考方式の注釈が面白すぎるのがズルイ!
読み終わり、本をケースに戻した瞬間、またひとつの穴が消滅する。

円城塔「後藤さんのこと」

色によって同名の登場人物をかきわけたり、抽象構造を小説のかたちに変換したような極めて実験的な作品ばかりの短編集。なんと帯にまで小説が書かれている!
しかし、このクオリティのものを次々と書いているのは凄い。