西垣通「基礎情報学」

現代情報社会というような言い方をするとき、その情報とは何を意味しているのか? 実のところ、その意味は極めて曖昧である。
日ハム優勝と言ったって、野球を知らない人にとっては価値が少ないし、そもそも日本語を解さなければ価値はゼロだ。日ハム優勝という情報は、シャノン情報量を持つビット列に還元できるが、それは通常われわれが使う「情報」とはまるで違うモノだ。
人間は意味を解釈する、いやすべての生き物と言ってもいいだろう。そこでオートポイエーシスという概念を用いて、これまでは文学や哲学で扱われてきたものと、生物学、情報工学を融合させ、文理の垣根を越えた学際的な学問として情報学を基礎づけようというのが本書の試みである。
そしてそれは、個人や社会などのオートポイエーティックな存在において流通している情報全般を扱える学問なのである。

西垣通は先人の理論を巧みに融合させて自らの情報学を作ってゆく。ルーマンをはじめとして、マトゥラーナ、ヴァレラ、ユクスキュル、ホフマイヤー、シャノン、C・S・パース、ヴェネディクト・アンダーソン、マクルーハン、ウォルター・J・オング、等々……
特にルーマンマトゥラーナ、ヴァレラ、ホフマイヤーあたりは非常に密に関わってくるので、あらかじめ主著を読んでおいた方がいいかもしれない。

さて本書では情報を「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」と定義している。
そして情報は解釈によって受け取った側の内部状態を変更させるが、その確認をとることはできない。つまり「情報は伝わらない」と断言する。
伝わらないのにどうやってコミュニケーションをモデル化するのか? その解法はこうだ。
オートポイエーティックな存在が対等にコミュニケーションするのではなく、両者が構造的カップリングしてできる高次のオートポイエーティック・システムを考えて、そのなかでコミュニケーション活動が行われているとするのだ。
このように単純な二項関係を排することで、送り手、受け手、だけを考えていたのでは解き明かせなかった問題に光明が差してくる。たとえば、

個人の世界は閉じているのに、なぜコミュニケーションがとれ(てるかのように見え)社会が成立しているのか?
チューリングテストのなにが問題(欠陥)なのか?
「想像の共同体」である国家とマス・メディアの関係とはいかなるものか?

……などである。
つまり基礎情報学を応用の方まで持って行ければ、かなり広い分野で使えると言うことがわかってくるだろう。
ただ残念なのは本書が200ページ強という薄さであることだ。
基礎を標榜するからには、他の書籍にあたらずとも本書一冊で情報学がまるわかりという内容にして欲しかった。もちろんそれぞれの理論を西垣流にかみ砕いた説明はあるんだけど、必要最低限であるので本書での使い方が妥当かどうかの判断がつかない。
幸い、西垣通と趣味があったのかルーマン以外はおおよそ押さえていたので、それなりに読解できたつもりではある。それでも肝心のルーマンを押せてなかったはちょっと痛かった。

本書は極めて野心的な本である。これを足がかりに、更なる衝撃を与えてくれる包括的な書籍や応用理論が出ることをを期待したい。

余談

ルーマンマトゥラーナ、ヴァレラ、ホフマイヤーを読んでおいた方が、と書いたけど、もしこれらを読んでなくて本書に取りかかる人は、第一章の次に最後の第四章を先に読んでおくと、中核となる理論の理解が進むと思われる。