鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」

ここ半年くらいずっとチェックしているブログがある。
Digressions
ここで唯一信頼する哲学者として紹介されているのが「鷲田清一」である。小難しいことで有名な現象学や、ファッションの研究をしている人らしい。高山宏が好きな人の言うことは盲目的に信頼するという習性があるので、おすすめされている本も素晴らしいに違いないと、ずっと気になってはいた。
と思っていたところ、先日読んだ谷川渥の「鏡と皮膚」で、鷲田氏が非常に的確なまとめをしてくれていたのをきっかけに、これはいよいよ読まねばなるまいと踏ん切りがついたというわけ。

前置きはともかく、読んでみて一言、面白い。
電車を降り損ねるかと思ったくらい、読みふけってしまった。それくらい面白い。
まず現象学をベースにしているのに、特有の難解さがまるでなく、かといってただわかりやすいだけのものではない。もはや人類が捨て去ることができない衣服をテーマに、非常に深いところまで迫ってゆく論考だ。
茂木健一郎も3年前くらいに衣服とクオリアの問題をとりあげていたが、その数年前にすでに現象学的な問題を考えつくした本があったとは驚きだった。また引用される文献もセンスの良さをうかがわせる。

本書の前半はモードとファッションの考現学ともいうべき内容。一昔前の本なので、とりあげられる用語のいくつかが(ルーズソックスとか)が古色蒼然としてしまっているのが、少々残念だが、いまでも充分に通用する話が多い。
後半はちょっと難しくなって衣服の現象学や身体論の方へ踏みいってゆく。ファッションという用語に囚われているわけではなく、そこから跳躍しようとする論理展開が見事だ。

ひとつ不満をあげるなら、大部分が着る服というよりは、見られる服、他者との関係性において存在する外皮としての服というテーマに割かれているところだろうか。もちろん社会的にはそちらの問題の方が大事なのはわかる。
しかし、個人的にはある種のコスプレやトランスヴェスタイトのように、自分はこの服を着ないとやっていけない、というような問題がどうしても気になってしまう。
たとえば、あなたが世界で最後の人間になったとき、どんな衣服を身につけるだろうか?
そこで発生する強い動機と本書のテーマがどのように絡んでくるのか……もう少し鷲田清一を追ってみる必要がありそうだ。

余談

ファッションにまるでくわしくなかったので、山本耀司川久保玲がパリコレにデビューしたときの衝撃を「黒の衝撃」と呼ぶことを初めて知った。きっとみんなレベルが半分になったに違いない。