森本和夫「デリダから道元へ」

道元はまったく知らないが、デリダなら多少は……ということで、タイトルに期待して読んだわけだが、それほど甘い本ではなかった。タイトルのようにデリダ道元という一方向の流れではなく、デリダ道元の共通点を指摘しながら、互いの理解を深めようというのが本書の主旨である。
そんなわけなので専門用語も説明なしにバリバリ使われている。「デリ道」甘くない。
そのために二人の思想家を共にある程度知っていて、さらに理解を深めたいぜ、という玄人向けの本だ。

デリダについて書いてあるところはなんとか理解できたが、道元が出てくるとおぼつかなくなる。もともと知らない上に、読み慣れない漢文とその読み下し文に大苦戦。

多少なりとも理解した範囲で二人の共通した方向性を述べるなら、論理を透徹しながらも、論理では把握できない領域まで思考を進めていることだろう。「脱構築はX」であるとは断言できないと何度も繰り返されているし、デリダ自身も語っている。これを論理的と断言していいものかどうかはわからない(本当の論理ならば矛盾はないはずだ)。人間は真に論理的に思考することはできない、ただ論理を指向することを放棄しては元も子もない。それだけにデリダエクリチュールに熱心だったのもうなずける(道元も同様の概念を構築している)。
それに付随してデリダの魅力を言えば、ある意味、言語遊戯にあると信じているのだが、それは道元にも通じるかもしれない。たとえば、「正法眼蔵」の「伝衣」の一節。

過去を化し、現在を化し、未来を化するに、過去より現在に正伝し、現在より未来に正伝し、現在より過去に正伝し、過去より過去に正伝し、現在より現在に正伝し、未来より未来に正伝し、未来より現在に正伝し、未来より過去に正伝して、唯仏与仏の正伝なり。

ここまでくると、意味を理解しなくても凄い。ほとんどナンセンス詩の様相を呈している。

うーむ、やはり正法眼蔵くらいは目を通してから読んだ方がよさそうである。

余談

ヒマラヤは、雪を意味するヒマと、蔵を意味するアーラヤの合成語。
アーラヤは阿頼耶識なんかで音訳されてもいる。