トーマス・シュタウダー「ウンベルト・エコとの対話」

冒頭に著者による「薔薇の名前」の評論があるが、他はすべてエーコとの対談になっている。エーコの人生について対談しているもの以外は、すべて小説を題材にしていて「薔薇の名前」「フーコーの振り子」「前日島」、そして未訳の小説である「パウドリーノ」「王女ロアーナの謎の炎」について語っている。

評論は、いわゆるポストモダン的な間テクスト性だとか、リゾームがどうのとかいう話で、バフチンを引用して笑いやカーニバル的なものへつなげたあたりはよかったが、面白いけれども食傷気味な展開だった。
対談はさすがに面白い。小説の裏話がふんだんに盛り込まれていて、エーコの小説を読んだ人なら絶対に楽しめる内容になっている。
対談中、エーコは「フーコーの振り子」が過剰宣伝で売れすぎたことを懸念している。イタリアで小説をそれなりに読める層は5万人くらいなはずなので、短期間にその何倍も売れるというのはいかがなものかと語っている。
人口比で言えば日本だったら10万冊を遥かに超えるようだったら、問題アリということだろう。自分も「薔薇の名前」を読んだときは、この本がベストセラーになったことがにわかに信じがたかった。
作家の人は読まなくても買ってくれと発言したりもするが、これは基本的に本が売れない商品であるからである。本来、必要な人が買ってくれて、それで成り立つなら、それ以上儲けたいとも思わないだろう。
不要な人にまで買わせるようなマーケティングが横行している時代に、エーコのこの発言は重い。


さて本書を読んでいて、どうしても気になってしまったのが翻訳の問題。
といっても本文自体はまったく問題なく、むしろ読みやすいくらいだ。問題なのは原注や文中に登場する本のタイトルや、固有名詞である。
たとえば今やエーコと紹介されている方が一般的なのにも関わらず、タイトルではエコになっている。この訳者は、エーコの「薔薇の名前」が邦訳されてブレイクする前からエーコを紹介していたようだし、実際の発音に近いのはこっちだということなのかもしれない。なのでエーコがエコになっていることや、「薔薇の名前」が「バラの名前」、「前日島」が「前日の島」になっているくらいは許せるレベルだ。
しかしボルヘスの「伝奇集」が「フィクション集」になっていたり、シオランの「悪しき造物主」が「悪しきデミウルゴス」になっていたりと、ここまでくると邦訳書を読ませないぞ!という悪意すら感じる。
また「薔薇の名前」の主人公アドソがアトソンとなってたりして、最初、誰だかわからなかったほどだ。
参考文献もそうで、エーコの著作一覧には訳者と訳書の出版社・出版年こそ表示されているものの、邦題が書かれていない。これは他の訳書を読んでみたいという人に対してあまりに不親切だ。

この手の本は、まだ知識が浅く原書が読めないから邦訳を読んでいるわけで、エーコ自体に詳しくない読者だって少なくないはずだ。だから参考文献を示すときなどは、邦訳書への参照性を高めたり、多少プライドを曲げても一般的に用いられている固有名詞にあわせたりすることも翻訳者の大事なつとめである。

とまあ文句をしこたま書いたけれども、本書の最後には付録としてエーコがイタリアの新入生用に書いた文章が載っている。なぜ本を読まなくてはならないかを語った文章で、碩学らしい愛のある内容。エーコを知らない人は、この部分だけでも立ち読みしてほしい、そう思わせてくれる文章になっている。

ウンベルト・エコとの対話
トーマス・シュタウダー 谷口伊兵衛 ジョバンニ・ピアッザ
而立書房 (2007/01)
ISBN:488059332X

余談

エーコの祖父は捨て子であったそうで、エーコ(本書ではエコ(笑))という姓も戸籍係が勝手に付けたものらしい。