エリック・スティール「ブリッジ」

映画の中では正義のヒーローの銃撃によって悪漢達がゴミのように死んでゆく。あるいは主人公の友人や仲間達が感動的な死をとげる。もちろん虚構の出来事である。
だかこの映画は違う。この映画は本当に人が死ぬ映画だ。

ゴールデン・ゲート・ブリッジ、その美しい景観とは裏腹に、ここは自殺の名所である。飛び降り自殺が絶えない。この映画は、そこで行われる実際の行為を包み隠さず見せつける。固定カメラを回しっぱなしにしたものではない、落ちてゆく人影をカメラは追う。人間が録っているのだ。
そうして自殺を図った人間の家族などを取材するドキュメントが、この映画の正体なのである。

この映画の恐ろしいところは、本当に人が死ぬところではない。ある瞬間に「次はどんな風に飛び込むのだろう」と手に汗握るエンターテイメントを予感させてしまうところが恐ろしいのだ。

この映画が「ブリッジ」ではなく「タワー」だったらどうだろう。飛び降りた先が、河でなく、道路だったら……いくらなんでも上映できない。だが事実は同じだ。飛び降りた者は時速200kmで水面に叩きつけられ、その瞬間に死ぬのだ。
血しぶきが、水しぶきだったというギリギリのラインでこの映画は成り立っている。
それだけに、見る者の自己の内部に潜む興味本位をあぶり出す。確かに、人が死ぬ瞬間を見てみたいという欲望はある、が、それを提供しても良いものだろうか? 紛争地域ではこの何十倍もの人間が死んでいるという現実がある一方で、はたしてこの映画に価値があるのだろうか? 舞台となったサンフランシスコからも紛争地域からも遠い地で見たとき、この映画の価値を問うことこそが、この映画の価値であるように思われる。