武田雅哉「新千年図像晩会」

和食や洋食もいいけど、たまには中華もいいもんです。
本書は中野美代子の弟子、武田雅哉による「蒼頡たちの宴」「桃源郷の機械学」の二次会的なノリの、地に足の着かない中華文化史である。
肩肘張らない洒脱な内容で、ためになる、感心するというよりただただ楽しい。まさに宴だ。

図像では、毛沢東の図像などを多数取り上げながらも、そこに政治的批評を下すというよりは、時代ごとに色々並べてみせて、笑い飛ばしている。だから重苦しくならず、とっても楽しい。
字典においても同じことが言える。1952年出版の字典では「毛」の意味は「毛沢東」の「毛」なのだ。これが第一義で出てくる。羽毛、羊毛などの(どうかんがえても本来の)意味は第二義になっている。
他にも、馬(マ)は馬克思(マルクス)の馬だし、斯(ス)は斯大林(スターリン)の斯なのだ。もちろん、どれも第一義である。もちろん今ではこんなことにはなっていないんだけど、時代背景がどうのこうのというよりも、あまりの滑稽さに笑ってしまう。

また漢字には四角四面のお堅いイメージがあるが、実はそうじゃないんだよ、ということを語ってくれている。それもそのはず。誰しも子供の頃に、既存の偏と旁を組み合わせて新しい漢字を考えたことが一度くらいはあるだろう。アルファベットではなかなかこうはいかない。仮に作ったとしても誰にも理解できない文字ができるだけだからだ。(ジョイスはそれをフィネガンズ・ウェイクで試みたけど)
こんな融通無碍なところが漢字にはある。実は漢字とは変化を許容してしまう文字体系なのだ。
そこにおいて中国でよく使われる「随便」という言葉が重要な意味を帯びてくる。
この言葉はとは随意、都合しだい、自由勝手、という意味で、これが国民性をよく表しているらしい。意味は異なるけど雰囲気としては日本の「微妙」みたいなものだろうか。この随便はある種のこだわりのなさを表している。たとえば名前に使う漢字なんかで異字体を使ったとしても、どっちでもいいよ、程度らしい。日本の出版物だったら訂正がでるところだ。
だからこそ簡体字という、これまでの漢字文化をないがしろにするような文字も、すんなり受け入れられたのだと分析している。繁体字にしても、こっちの方がカッコイイとか、まあその程度らしい。
このことからしてもコンピュータにおける文字のコード化によって、多少減ったり変形したりしても問題が出ないのではないかと続けているのだが、これには少々疑問が残る。なぜなら文字コードは一度策定してしまい、普及してしまうと、文字セットが固定されてしまうからだ。これまで自由勝手にできた漢字の創造が一切できなくなってしまう。つまり多少減ってしまうことは問題ではないかもしれないが、増えなくなってしまうことが問題なのである。
アルファベットで生活している人には、文字が減ったり増えたりする感覚は理解しがたいだろう。だから漢字を使っている我々が主張していかなければならない問題だ。(たしか荒俣宏もこのような主旨のことを発言していたような気がする)

本書、および「蒼頡たちの宴」によると、漢字は蒼頡という伝説上の人物によって作られたとされている。その後の歴史においても、新しい漢字を作ろう、あるいは漢字を撤廃してまったく新しい言語を作ろうと試みた「新しい蒼頡」たちが数多く存在した。「蒼頡たちの宴」のアンケートによると、今でもそういう試みをする人々がいるらしい。
豊かな中国文化は、突飛な変化を柔軟に受け入れて育ってきた。またその恩恵を受けてきたアジア諸国の文化も例外ではない。だからこそ、これからの新千年の時代においても、新しい蒼頡たちに楽しみを残してあげたいと思うのである。

漢字に関して詳しく知りたい方は、こちらも。

余談

中国語でWWWとはもちろんWorld Wide Webの意味だが、実は万維網(Wai Wei Wang)の略である。意味も略称も英語と同じにしてしまう驚くべき新語創造力!