ミシェル・フーコー「自己への配慮」

ちょっと更新を怠けてしまっていた。本書は一週間前に読了していたもの。
本書は「知への意志」「快楽の活用」に続く性の歴史三部作の最後にして、フーコー最後の書でもある。

序盤は前作の続きという感じで割と分かりやすいのだが、後半にかけていかにもフーコーらしい難解さが色濃くなってくる。
第一章では古代ギリシャ・ローマ時代の最新科学や夢分析に見られる性の問題を検証してゆく。もちろん今から見ればトンデモとはいえ、当時の知識の範囲内で論理的に得られた結果なので、単なる迷信以上の人知がそこにあるというわけである。
夢分析では異性愛にしろ同性愛にしろ、その夢の内容が能動と受動であるかが問題になってくる。能動的ならば勝利なのだが、受動的なのは敗北である。やるかやられるかが重要なわけだ。この辺に古代ギリシャの女性蔑視がかいま見れる。
また男性同士は問題ないが、女性同士は自然的ではないと見られていた。これは女性同士の場合、どちらかが能動的な男性側を演じるわけだが、そこにおいて能動の要とも言うべき挿入が伴わないので不自然だというわけである。挿入重要、挿入勝利だ。
とまあ、このようなかなりファロセントリスム的な夢分析の存在は、これが当時の道徳規範であったことをうらずけている。

そして性的な勝利のために必要なのが、自己の鍛錬、陶冶である。これが本書のタイトルにもなっている。
第五章ではこれまで語られることの少なかった女性にスポットライトがあたり、第六章では再び男性同性愛の問題に立ち返るあたりが、やはりフーコーだ。これが遺作というのもむべなるかな。

余談

ちなみに一応こういう意見もあると言うことで。フーコー大好きという人はバランスをとるためにも読んでおいた方がいいだろう。
歴史家としてのフーコー