ミシェル・フーコー「性の歴史I 知への意志」

性の歴史三部作の第一作。久しぶりにフーコー読んだら、結構難しかった。

まずヴィクトリア朝においては性は抑圧されていたと言われてきたが、じつはそうではなくて分類学的に系統化されていったのだという分析から始まる。それは近代における性の楽しみ方のバラエティを見れば誰でもわかることだ。

フーコーの場合、ここで性にこだわるんではなくて権力との関係で分析を試みる。しかも本書における権力という概念が一筋縄ではいかなくて、要するにちょろっと読んだだけではわからないのである。
ここらへんにくると以前の著作である「監獄の誕生」やら「狂気の歴史」やらしっかり読み込んでいないと、話の通りが悪くなってくる。自分のように勉強家でない人間には大変だ。

むしろこの権力の話は第五章の死と生の話までくると分かりやすくなってくる。
近代においては「死なせるか生きるままにしておく」という古い権力から、「生きさせるか死の中へ廃棄する」という権力へとい移り変わってきたというのである。そのために死の勝ちが下落してしまったというのである。
そういう意味では「性」の話というよりは「生」の話として読むほうがわかりやすいのかもしれない。

とにかく性の概念はわかりずらい。原題にあるsexualiteの概念が単純に性とも性欲とも置き換えづらいためである。性という概念は文化の根底と密接にからみついていて、他言語で書かれている性の内容を文脈的に理解することを困難にしている。それが権力という抽象的なものと結びついてゆくとなおさらだ。
フーコーの著作は近視眼的に読んでいるだけでは駄目で、全体像を把握しつつ飲み込んでゆく必要がある。とりあえず次の「快楽の作用」を読むことで、振り返って本書の内容がわかってくるかもしれないという淡い希望を抱きながら、先に進むとしよう。