岡田温司「マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女」

岡田温司というと脊髄反射でありな書房の高価な本が思い浮かんでしまう。その岡田温司の本が千円以下で手に入るなんて、なんと素晴らしいことかと思い、発売直後からチェックしていた。そうするうちに、あれよあれよという間にダヴィンチ・コードがらみで大盛り上がりの気配。
というわけでブームも落ち着いて、ようやく読んだ。

新書なんで軽く読めるかなと思ったら大違い。新書でありながら、ありな書房に負けないくらいの濃密さがある。逆に言えば、素人というより、多少は前提知識を持った人用という感じ。

中世からバロック期の、主にイタリアの図像、詩歌に見られるマグダラのマリア像を分析している。図像学的な表象がどのように遷移してきたかという、系譜学的な記述である。

マグダラのマリアというともともと娼婦であり、その後、悔悛したという劇的な人物である。またキリストの復活を目撃するなど、非常に重要な役割を担ってもいる。
ジャン・リュック・ナンシー「私に触れるな―ノリ・メ・タンゲレ」 - モナドの方へ

ここで娼婦であるという記号が、正反対の記号をもつ聖母マリアと対照的であることを忘れてはならない。本書を読んでわかることは、マグダラのマリア聖母マリアが決して背負うことのできない部分を多く表象しているということだ。それゆえに数多くの画家や詩人達に愛された。それは穿ってみれば、極めて性的な欲望であったり、SM的な倒錯が見られもする。

母ではない女のテンプレートとしてのマグダラのマリア。その手の十字架を担当に持ち替えれば、陵辱を受けて自害するルクレティアになり、毒蛇に置き換えればクレオパトラになる。それ以外もパンドラのように、いかにも「女」という女性のベースになっているかのようだ。西洋の女性像のひとつとして見逃せないキャラクタというわけである。

そういうわけで個人的には、もっと聖母マリアとの対比が気になった。そういう角度から語っているマグダラ本が、どこかにないものだろうか。

聖母という記号では絶対に表現できない、もうひとりのマリアの肖像。

余談

本編とは全く関係ないが、ネグリジェの語源が無頓着(ネグリジェンテ)であることに気づかされた。(172P参照)