TVの中はすべて幻想

昨日今日のTVを見ていて、ある作品を思い出した。
それはボルヘスとカサーレスの師弟コンビによる「ブストス=ドメックのクロニクル」。その中の「存在は知覚」という作品である。

舞台は、書かれた当時(1960年代)のブエノスアイレス。主人公はとあるサッカークラブの会長であるサバスターノ氏と会談することとなる。主人公がそのクラブの選手を褒め称えたところ、サバスターノ氏は意外なことを言い出した。
クラブの選手の名前を考えたのは、サバスターノ氏であるというのだ。
混乱する主人公は悲痛な声で叫ぶ。

「えっ、みんな本名ではないんですか」(中略)「ムサンテの名前はムサンテではないのですか。レノバレスもレノバレスではないのですか。リマルドもファンが声援を送るあのアイドルの本当の名前ではないのですか」
 彼の答は私から全身の力を抜くに足るものであった。
「何だって、君はいまだにファンやアイドルの存在を信じているのですか。君は一体どこの住人なのですか」


受け答えるサバスターノ氏はいたって冷静のままだ。
ますます混乱する主人公は、すべての試合は八百長なのかと問いただす。
するとサバスターノ氏は驚くべき真実を語った。

「スコアもなければ、チームもないし、試合も存在しないのだよ。競技場も皆取り毀されて粉々になっているのだ。今ではすべてがテレビやラジオの中で上演されるのだ。アナウンサーの胡散臭い興奮ぶりを視て、すべてが嘘っぱちではないのかと勘ぐることはなかったのかい。ブエノスアイレスで最後のサッカー試合が行われたのは1937年の6月24日なのだよ。その瞬間からサッカーはその他の各種スポーツ競技同様、ブースに入ったひとりの男と運動着を身につけた数人の男達がTVカメラの前で演ずるドラマの一種となったのだ」


メディアは国民的熱狂というものを生み出した、と同時に人々を実体と隔絶させていった。
この作品を読んでから、TVの中の出来事はすべて幻想だと思うことにしている。
そして「存在は知覚」はこんなふうに幕を閉じる。

「でも、もしその幻想がはじけたとしたら?」
「はじけるはずないのだ」(中略)「何でも言ってみるがいいのだよ。誰も信じはしないのだからね」


「存在は知覚」とはバークリーの言葉である。メディアを通した出来事が真実あるか否かを確かめるすべはもう失われている今、仮にそれが幻想であろうとも、ひとつの真実になってしまっている。

ブストス=ドメックのクロニクル
ホルヘ・ルイス ボルヘス アドルフォ ビオイ‐カサーレス Jorge Luis Borges Adolfo Bioy Casares 斎藤博
国書刊行会 (2001/03)
ISBN:4336042861