ウィリアム・ウィルフォード「道化と笏杖」

道化論のバイブルと言っても過言ではない大冊である。もしも道化論を一冊だけと言われたら、間違いなく本書になるだろう。
道化の起源、現代における道化、精神分析的に見た道化論、物語における道化……等々、目配りが効いている。
また訳者である高山宏がもの凄い訳注(「訳注をかねたフール小辞典」3段組で80ページ!)をつけている。日本翻訳文化賞特別功労賞を受賞した力作だ。

内容が広範にわたっているので、全体について語るのは不可能だ。そこで読書時にとっていたメモを見ながら書いてみることにしよう。

さて道化といってもさまざまだ、日本語だとなんでもかんでも道化になってしまうのだが、実際には細かな分別がある。

  • フール:もっとも広義な意味で、一般的な道化。逆説的に「賢いフール」などという表現もある。
  • クラウン:サーカスのピエロ的な側面が強い、狭義の道化。フールと違い、逆説的な賢さは持ち合わさず、愚鈍さが強調される。
  • ジェスター:貴族に仕える宮廷つきのフリークス。

そしてタイトルにもあるように、道化は笏杖を持っている。それは偽王(モックキング)としての証であり、男根のシンボルであり、鏡であり、分裂したもうひとりの自分なのだ。
歪な鏡としての道化。そこにグロテスクを感じるのは、それが呪われた部分としての己の内面を表象しているからだろう。
我々の脳の中に潜む鏡的な道化とはなんなのだろうか?

初期の精神病院、或いはこの点ではあの比喩的な愚者の船もそうだが、これらにはサルトル*1の描いた「出口なし」(ユイクロ*2)状況と大いに相通じるところがある。フールの鏡は脅迫かも希望かも知れないし、どちらでもないのかも知れず、また同時にそのいずれでもあるかも知れない。

愚者の船とはボッシュが描き、ブラントが記した、一種の乳母捨て山だ。星新一の「ピーターパンの島」と言えば通じる人もいるかもしれない。おぞましくも、ある意味では真のユートピアとも言える阿呆船。毎日が祝祭のその世界に、我々は一方であこがれながらも、決して耐えることができないだろう。


さて、もう一つの読み所は「ハムレット」「リア王」の分析だ。著者は精神分析系の人であるため、そのような批評スタイルをとっている。
リア王」おいて道化とコーディリアは同時に現れることはないため、二つの役は同一人物が演じられていたのではないか?と多くの批評家が考えてきたのだという。ウィルフォードはその事実云々というよりも、そのように考えさせる王と道化・コーディリアの関係が重要なのだと論じる。
リア王」を読む、あるいは観る場合において、道化を軽視する人はいないだろうが、ウィルフォードの論旨を頭の片隅にとどめつつ、道化を扇の要として「リア王」を再読すると、また新たなものが見えてくるような気がした。

とにかく示唆に富む本。読むべし。

道化と笏杖
道化と笏杖
posted with amazlet at 05.08.28
ウィリアム・ウィルフォード 高山宏
晶文社 (1983/01)
ISBN:4794931123

余談

特に「リア王」に関する分析は、妥当かどうかはともかく、興味深く読んだ。
これを読んでから「二人のリア」を書いてたら、また違っていたかもしれない。

追記

フールが、自己を超越し異言を語ることがあったという。それをグロッソラリアというのだが、非常に気になった。
いやオカルト的な意味ではなく、アウトサイダー・アートや文学的な意味で。
http://www.genpaku.org/skepticj/glossol.html

*1:サルトル生誕100周年だそうですが、サルゲッチュのCMを見るたびにサルトルを思い出す

*2:ユニクロをみるたびに「出口なし」を思い出す