モダリティを越境する困難さ

日曜の日経新聞の読書欄に文壇往来というコーナーがある。8/28日の紙面で、中上健次が漫画の原作をやったことに関して、青山慎治が「越境はそう簡単ではないですよ」と述べたと書いてあった。

原作がある映画はよく失敗する。越境は難しい。一流の作品をモダリティ変換すると二流になる、二流の作品なら一流に変換可能である、という俗説もあるようだ。(たとえば「ベニスに死す」が素晴らしいのは、原作の小説が(トーマス・マンの中でも)大したことない出来だからみたいな話)

メディアが様々な五感にアクセスする現代、モダリティの変換ということをもっと抽象的なレベルで考える必要がありそうだ。そういうことを真剣に考えている人としては佐藤雅彦などが挙げられる。でもクリエイターなんていう横文字な人は、考える義務があるだろう。

今、書いていて思い出したが、この問題はマリオ・プラーツが「ムネモシュネ」で論じているエクフラシスの問題と関係が密なのかもしれない。文学と視覚芸術が交換(翻訳)可能なのかどうか?

絵画・動画・音楽・音声・文字・記号の相互変換。モダリティ変換の問題は実は結構重要なんじゃないだろうか?

ムネモシュネ―文学と視覚芸術との間の平行現象
マリオ プラーツ Mario Praz 高山 宏
ありな書房 (1999/11)
ISBN:4756699618

なんか、先送りの問題が多いなあ……