マーク・デリー「エスケープ・ヴェロシティ」

「精神/身体」のデカルト的二元論の新しい形として登場した「電脳/サイボーグ」の対立、そして人間精神の脱出速度(エスケープ・ヴェロシティ)を測ることをテーマとした評論。
扱うジャンルも「パフォーマンスアート」から「独身者の機械」までと幅広い。

電脳文化論というよりはむしろ身体論の色合いが強い内容だ。積極的に語られるのはサイボーグの現在形であるところの整形や義肢、そして肉体を酷使するパフォーマンスアート。それらを通して、未来における身体の行方を見すえる。
所々に執筆当時(1996年)の最新コンピュータ・ネット事情が描かれている。まだ一般的ではなかったのか、CD-ROMの説明やらが挿入されているところが微笑ましい。それにしても高々9年前の話だというのに、恐ろしく古い話のように感じてしまうから不思議だ。

魔術的コンピュータ

前半で繰り返し主張されているのがコンピュータ技術と魔術との類似性である。数と世界が結びつくカバラ的秘術を思い出すまでもなく、コンピュータ技術というのは実に(知らない人から見れば特に)神秘的である。

これまでの技術というのは、自然という謎めいたアーキテクチャに対してコードを書いていたようなもので、基本的には長年の経験と勘がものをいう世界である。
しかし、コンピュータの世界は別だ。
ポール・グレアムが「ハッカーと画家」で「普通の仕事なら優種な人間が凡庸な人間の千倍仕事をすることは不可能だが、プログラマーにはそれができる」(大意)と語っていた。確かに自然のコードで千倍もの効率で仕事をこなしたなら、それは超能力者か魔術師である。
もしも中世の錬金術師のように自然のコードを解き明かしたならば、それも可能だろう。だが、実世界は入り組んでいて容易に解明できるものではない。
同様に、高度に抽象化されたコンピュータ技術は、それを知らない者にとっては完全に未知なる世界だ。それを自在に操っているさまは、まさしく魔術にしか見えない。

人間の文化的地盤がコンピュータのコードにますます依存するようになれば(当然そうなるだろうが)、精神も肉体も自然のコードから乖離してゆくことになるだろう。
その時、優秀なハッカーの称号であるウィザードは、真の意味で魔術師になるのではないだろうか。そんなことを考えた。

なんで死ぬときぐらい男らしく死ねないんだ!

どうやら著者は「ターミネーター」が大好きらしく、特にT-1000の話題がそこかしこに出てくる。
後半にある、「ターミネーター2」をT-800(シュワルツェネッガー)をテクノ男根(ファルス)、T-1000をヴァギナ・デンタータとして見る批評はなかなか力が入っていて、極めて単純なフロイト的解釈ながらも、ある意味(ネタとしてみても)興味深い。
個人的には、塚本監督の「鉄男」が内容に絡めて分析されていたのが嬉しかった。