ウィリアム・J・ミッチェル「リコンフィギュアード・アイ」

デジタル画像時代の写真論。ただしデジタル画像となれば写真もCGもデータとしては同じなので、実際には写真+CG論である。

本書の面白いところは、人文的な写真論とデジタル画像の技術論がセットになっているところだ。
もっとも技術論の方は、10年以上前に書かれた本ということもあって、別に目新しいこともなく、普通の(知っている人から見れば常識の)ことが書いてあるのだが、そこに美術論などの視点も登場してくるので驚かされる。
たとえば、レイトレーシング法の説明ではレオナルド・ダ・ヴィンチデューラーの技法が引かれるし、ラジオシティ法の説明ではファン・エイクの絵画「アルノルフィニ夫妻」の画法が引き合いに出される。

とはいえ、読むべきは技術論の方より最初と最後の写真リテラシーのところだ。
写真は真実を写すものと思われていただけに、写真は多くの人々を欺いてきた。切り貼りによる改竄、キャプションのすり替え、削除、修正……だが所詮はアナログ技術だ。どこかしらに必ず修正の跡が残ってしまう。
だがデジタル画像による改竄は、どこも本物と変わらない。っていうか、デジタル画像においては、そもそも本物って何よ?って話になる。
とにもかくにもリテラシーの強化をしていかないと、ヤバイ。

簡単に時代の流れをメモっておく。

  • なんにつけても絵画の時代
  • 1830年代後半、写真の登場→絵画の死?
  • 真実を写すものとして写真が活躍
  • 切り貼りによる写真の改竄、キャプションの付け方によるメッセージの誤読
  • 写真誕生から150年後、デジタル写真の登場→写真の死?
  • PCでも写真の改竄が容易になる
  • 写真はもはや真実を写す物ではなくなった

というわけで、デジタル技術の到来で、写真は新たな局面を迎えた。
そして、作者の意見は以下の言葉に集約される。

確かにわれわれは、影を固定する術を手にした。しかし、その意味を確実なものにし、真偽性を安定させる方法は学んでこなかった。いまもなお影たちは、プラトンの洞窟の壁の上に踊っているのである。

デジタル画像にはヴァーチャルとリアルの境界がない。これからの時代においては、なんにつけてもこういう術を身につけていかなければならないわけだ。