ウラジーミル・ナボコフ「青白い炎」

ロリータ新訳おめでとう、ということで手に取った。
詩人ジョン・シェイドが記した「青白い炎」に、彼の友人?でもある文学教授キンボートの注釈が加わってひとつの小説になった実験的な小説である。

詩が999行、66ページ*1であるのに対し、注釈がなんと343ページもあるのだ。文学理論的に言うなれば、テクストである詩よりも、コンテクストの方が多いという異常な状態であり、また一つの作品がテクストとそれを包むコンテクストによって成立しているという部分でも変わっている*2

ジェイドの詩はジェイド自身の人生を綴った極めて叙事的な詩である。子供時代から、妻や娘に起きたことが韻律と共に語られる。
一方、キンボートの注釈はというと、出だしこそ「青白い炎」に関していることなのだが、どんどんとキンボート自身の人生がこじつけられて描かれてゆく。キンボートが亡命してきたゼンブラ王国から、グレイダスという暗殺者が迫り来ることが徐々に明らかになってゆく。

この注釈はキンボートの妄想なのか? それともジェイドの死と何か関係があるのか?
注釈=物語としての「青白い炎」はまるでミステリのように展開されてゆく。そして詩の本来の意味を読者は二度*3解釈するのである。

詩と注釈とに断絶があるのは明らかだ、キンボートがこだわるゼンブラなんて詩の中ではたったの一回しか出てこない*4。いやキンボートの言を信じるならばゼンブラの記述はあえて抹消されているというのだ!
だがジェイドがキンボートを歯牙にもかけていなかったとしたら、注釈は非常に悪意に満ちたものにもなりうる。キンボートが語るように、

人間の生涯は晦渋で未完な傑作に付された一連の脚注にすぎない

のだとしたら、我々は真実をどこに求めればよいのだろうか?
人生の叙事詩をもうひとつの人生がパランプセストする。情報化社会の中で、我々はおそらくそれを体験している。茂木健一郎が批判する文脈主義である。我々は作品を、系譜とかわかりの良いキャッチフレーズなど、実は作品とは関係のない文脈で語ってしまいがちだ。そして流通させる側の人間は文脈を用いてマーケティングをする*5。文脈に汚染された作品は、もはや作品自体として評価することが困難になる。
もちろんコンテクストを取り払うことはできない。当然、作者だってコンテクストを持たない読者など想定していないわけだし、そもそも言語体系そのものがひとつのコンテクストなのだから。
本書で面白いのは、キンボートがコンテクストを操作し、テクストを領域侵犯しようとしていることだ。だが安心してもいい、これはフィクションだ。何が正しくて何が虚構なのか、フィクションとはどだいすべてが虚構なのだから、それほどこだわる必要はない。その決定不能性、宙づりにされた状態を楽しむべきなのだ。

読む際はしおりを二枚用意しておくように。

言葉遊びっぷり

また本書はナボコフらしく言葉遊びに満ちている。そもそも主人公がシェイド(影)という名前からして、妖しい。キンボートは「青白い炎」の異稿から無理矢理にグレイダスの名前を見いだそうとするし、誤植によって生じたロシア語と英語の偶然の一致などにも気を配っている*6
他にも言葉遊びに関する記述が沢山出てくるので、見逃すな!

リンク

ナボコフといえば、ロリータの新訳も行った若島正先生。「青白い炎」の評が実に面白い。すでに大本は存在していないのですが、Internet Archiveから拾ってきました。
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っていうかB・S・ジョンソンの「不運なる人々」も早くね。

余談

ナボコフの他の作品の登場人物なんかにも言及されている。ロリータもでてきます。少々カトリーナ的ではありますがね。

*1:併記されている英文のぞく

*2:このやり方はダニエレブスキーが「紙葉の家」で見事に衣鉢を継いだ

*3:テクスト自体の意味、テクストを外部からとらえなおしたときに生じる意味。ここでもポストモダニストは二度ベルを鳴らすのである。

*4:Z字はいくらか出てくる!?

*5:たとえばファウストなど。過度に文脈に依存した作品は、文脈の死が作品の死となってしまう。

*6:キンボートのなかには、母国語がロシア語でありながら英語で執筆を行うナボコフの姿が、当然のごとく潜んでいる