シャルム・ジェルミナール「キマイラの覚醒」

シュルレアリスムが華やかなりし20世紀前半のフランスで、完全に埋没していた奇書中の奇書。しかしその内容は衝撃的で、文学・哲学・数学等に興味があるなら絶対に知っておくべき一冊だ。
あえて読んでおくべき一冊と書かなかったのには理由がある。まず極めて入手困難であるということ。自分は田舎の古本屋で偶然発見し大枚をはたいて購入して以来、他の店では一度も見かけたことがない。もし売っているのを見つけたら、値段がいくらであろうとも即座にゲットすること。(オークションにだせば元が取れるので)
もうひとつは読むのがとにかく大変だということだ。そもそも原文はどうなっているんだ?と仰天してしまうような訳文が連続するのである。自分自身、読破には1年もかかってしまったほどだ。(実は、大学を休学してしまったのは本書を読むためであった)

さて本書の内容である。
話としては、とある片田舎に謎の構造物(どうやら建築物のようなのだが、常に構築物と表現される)が突如として出現するところから始まる。周りの住人達は不審がって近づこうとはしない。しばらくするとテストと名乗る博士がやってきて、その構築物の調査を始める。調査を進めるにつれて、しだいに博士は常軌を逸していき最期には「キマイラに近づくな……目覚める」と言い残し、謎の死を遂げる。
一方、パリでは「キマイラの覚醒」と題された、111時間にも及ぶ長大な演劇が進行中であった。そこではテスト博士そっくりの人物が舞台に登場し、キマイラの謎を解こうと格闘している……
演劇の進行にともなってキマイラの正体は明らかになってゆくのだが、それは実在するもとと言うよりは数学の定理の集合のような、厳密に構築された概念モデルであるということがわかってくる。

とまあここまではそれなりに普通の小説と言える。問題はここからで、キマイラが活動を開始すると、その影響で登場人物の人格、話の時系列が歪み始めてくるのだ。
さらには物語構造や文体までもが解体しはじめ、それは小説というよりは批評理論の本を読まされているような内容になってゆく。その中に本書の批評文が巧みに織り込まれてきたりと、メタ的な様相を見せつつも、またそれを逆手にとって物語を進行させたりする。
このように、まさに迷宮のようであるため、巨大なストーリーマップを書きながらでないと、とてもじゃないが内容を把握することは不可能なのだ。しかし、このマップを書いてゆくことで、本書の究極の目的であるキマイラ覚醒の謎に肉薄できる醍醐味もある。

小説の手法としては、レーモン・ルーセルのやり方に似ているが、もっと徹底している。シュルレアリスムの作品が夢から題材をとっているのに対し、ギリシャ以来の人間の英知をランダムにだが秩序だって取り出してきて編まれた小説という感じだ。また概念モデルが現実世界に影響を及ぼすという意味では、イーガンやテッド・チャンのSFに近いのかもしれない。

本書の面白いところは、そのストーリーばかりではない。話題の中心となる概念モデルとしての「キマイラ」が数学的に精巧に練り上げられているというところだ。それは群構造と同型になっていて、後に発見されるモンスター群とも関係があるらしい。この抽象的なモデルが、哲学者アンリ・マンソンジュの思想に影響を与えているというのは有名な話である。そのマンソンジュがフランス現代哲学の基礎を作ったということは言うまでもないだろう。

とにかく衝撃的な一冊! 幻想文学が人間の普遍的な知性を描き出した究極の一例と言ってもいいだろう。
大きな図書館であれば所蔵されているかもしれないが、あまりにも厚く、読むのに時間がかかるので、できれば頑張って入手して読んでいただきたい。

余談

シャルム・ジェルミナールは明らかに偽名である。
ジェルミナール(Germinal)はフランス革命暦で3月21日〜4月19日にあたり、シャルム(Charme)はその12番目の日をさす。