野矢茂樹「他者の声 実在の声」

論理哲学論考」の新訳をものし、ウィトゲンシュタイン研究で知られる作者の哲学的エッセイ。
テーマは言語、論理、無限などであるが、実際の所キーワードは最後の「無限」に尽きる。

0.9999……が1と等しいことや、無限集合に関するカントール対角線論法を、素直に受け入れてきた自分にとって、本書の著者による「無限論の教室」の教室を読んだときに受けた衝撃は大きかった。
今の数学では無限というものを、とりあえずあるものとして考える「実無限」という立場をとっている。まあその方が何かと都合がよかったりするので。
しかし実際には0.9999……を数えきることは不可能だ。どこかで打ち切るべきであり、打ち切ってしまえば1と等しいなんてことはありえない。つまり永遠に9が続いてゆくという想定そのものがおかしいと言えばおかしいわけだ。こちらの立場を「可能無限」といい、古くはアリストテレスの時代にまで遡る考え方である。

本書のひとつのクライマックスがゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスを解決するというものである。ここでも「実無限」なのか「可能無限」なのかという話が存分に出てくる。

他にも言語は無限であると言える。もちろん語彙の数は有限だというつっこみがあるかもしれないが、たとえば言語は自然数を含んでいる。誰しも、次の瞬間に任意の自然数について語る可能性があるわけだ。
ちなみに人生は有限時間なんだから、その中で語りうる数の組み合わせだって有限じゃないかと揚げ足をとれなくもない。そういう場合は、新たに作った言葉を変数として任意の数を割り当てればよい。
同様に、他者もまた無限の可能性に満ちている。
とにかく無限が関わる問題を論理的に考えるということは、大変やっかいなことなのだ。

また論理学なんてくだらない、なんの役にも立たないという人。逆にロジカル・シンキング万歳!という両極端な人には、論理を育む教育について語った「ジョン・ロックへ、あるいは論理学の答案の余白に恨み言を書き付けてきた学生へ」がオススメ。
ジョン・ロックは三段論法なんてくだらねえ、そんなもの知らなくても理知的な思考はできるぜ!と「人間知性論」で書き殴っている。ロックなのにパンクなヤツである。それに対する著者の丁寧な反論が面白い。
ようは思考は本質的に非論理的なので、論理学を勉強することで必ずしも思考力が身に付くわけではない。だけど、思考の結果を他人に語るプレゼンをするためには論理学が不可欠だというわけだ。
たとえば数学の証明問題では、この定理を適用すると解けますよという論理的説明を要求される。これは論理的な行為だ。しかし、そもそも、なぜその定理を適用すべきと考えたのかを説明するのは困難だ。不可能かも知れない。これは数学だけでなく、ミステリにおける探偵の推理にも言えることだろう。
ちなみに書き添えておくと、ウォルター・J・オングの「声の文化、文字の文化」には、未開文明の人が三段論法を理解できない(興味を示さない)ことが書いてあった。

最後に、この本はさまざまな雑誌に掲載されたエッセイをまとめたものである。それぞれ書かれた時期やテーマも異なっているのに、こうして連続して読むと起承転結よくまとまっている。また時にはお茶目で軽妙な語り口になっていて読みやすい。
ウィトゲンシュタインや無限に関する論理をある程度知っていることを要求されるので、初心者向けとは言えないものの、少なからずテーマに興味がある人が読めば必ず得られるものがあるだろう。

まずはこの二冊を読んでおきましょう

余談

こういう論理等ににまつわる本を読んでいると、とっても癒されることに気づいた。抽象度が高い問題について考えていると、日々起きる社会的なニュースやら国内外の諸問題、自分の身の回りで起こっている問題なんかどうでもよくなる。また寛容になれる。
パスカルが歯痛から数学を始めた理由が分かったような気がした。