谷川渥「鏡と皮膚」

内面と外面はどちらが本質なのか? 内面が大切なんだと思われるかたも多いだろう。しかし、そこにクエスチョンマークを投げかけるのが本書である。古今の芸術作品を神話をよりどころにながら分析してゆくのだが、ただの芸術論に留まっていない。

前半のテーマは鏡ということで、オルフェウス神話、ナルシス神話、メドゥーサの首が、後半のテーマは皮膚ということで、マルシュアスの皮剥、ヴェロニカの聖顔布、真理とヴェールが取り上げられている。二つのテーマを結ぶ間奏として、ベラスケスのラス・メニーナスの分析が挿入されている。

実際の絵画と古今東西の神話とを往復しながら、さまざまな図案をもとに人間精神の本質にせまってゆく。とにかく表象と表象とのつなげっぷりが面白くて、表皮の話からパランプセストにつなげたと思えば、次はX線の話へと広げてゆく。近代的人間は皮一枚の向こうをのぞき見るという透視欲望を持っていたというわけ。

皮膚の論議はさらに拡張されていって、表面の感じ、面と面との接触、という点をつきつめてゆく。そこにおいて著者はシュルレアリスムの真の精神を、版の精神という言葉で説明する。デカルコマニーやフロッタージュという技法はまさに面と面との接触から生まれる。そこに驚くべき情報量の転写、意外性が生まれるのかもしれない。このへんは巻末対談にもある通りアフォーダンス理論とも関わりがありそうだ。

最終的には鏡と皮膚とが同一のものであるという結論に達する。たしかに、ヴェロニカの聖顔布はまさに鏡の皮膚である。してみると間奏にラス・メニーナスの分析がきているのが見事に生きる。「言葉ともの」でのフーコーの分析を批判しながら、その上を行く論議は、まさに鏡と皮膚をつなげる境界として作用しているわけだ。

ひとつひとつのプロセスの確度は別として、その論理展開の見事さは、まるで美しい数学の証明を見ているようで爽快きわまりない。単純に知的興奮を味わうという意味でもオススメできる一冊。
巻末対談では鷲田清一がわかりやすいまとめをしてくれているので、濃密な本文に熱に浮かされても安心だ。

余談

著者近影でポーズつけすぎ! でもカッコイイから許す。

余談2

アケイロポイエートス(人の手でつくられたのではない)という言葉を知った。