山口昌男「道化の民俗学」

道化と聞いて、思い出してしまうのはリア王の道化である。
リア王につきまとい、パッパラパーに見えながら巧みな逆説を用いたり、グサリと核心を付くことを言ったりする。キャラ的には嫌なヤツだが、同時に憎めない。シェイクスピアの戯曲の中でもリア王が1・2を争う作品に仕上がっているのは、道化の活躍を抜きには語れないだろう。
本書では道化の代表例として、まずコメディア・デラルテアルレッキーノがひかれる。アルレッキーノはイタリア語だが、他の言語ではアルルカン、ハーレクインなどとも呼ばれている。こっちの方が聞き覚えがあるかもしれない。
彼らは、とにかく主体性ってやつがまるでない。敵なのか味方なのか?馬鹿なか賢いのか?カメレオンのように性格を変え、はては男なのか女なのか区別がつかないような格好をしている。だが二極のどちらか、ではなく、これまでも山口昌男の読書記で書いてきたように両義性(アンビギュイティー)を備えているのだ。
普通我々は悲しいときは「泣く」し、おかしいときは「笑う」。でも感情が昂ぶって、わけわかんなくなると「泣き笑い」をしてしまう。これが道化的というやつだ。人間は成長にともなって感情が分化するが、それ以前の原始的な感情の記憶なのだろうか?
いや、道化はただ幼いというわけではない、同時に老成してもいる。その言動は無知というのではなく、外から俯瞰しているかのような深い洞察を備えているかのようだ。
本書において道化を的確に説明している部分を引用してみると、

ある文化のなかである時代に欠点と考えられるもの、ネガティブに扱われている性格は、言い換えれば、人間がそこから疎外されている部分でもあるのだ。アルレッキーノはそれらを一身に引き受けることによって、文化のなかの疎外された部分を「阿呆」「道化」という仮面のもとに外在化させる。

各神話においては、ヘルメス、クリシュナ、エシュなどが道化的な性格をもつものとして分析されている。
当然、現代の小説、映画、漫画、アニメ、ゲーム、あらゆる文化に彼/彼女らは顔を出している。そういった道化の普遍性とは何なのか?それが民俗学とは名ばかりの、いわば「道化の文化史」である本書が問いかけるテーマである。
道化を、単純な二項対立では語り得ない我々を語りうる装置として、民衆の中から立ち上がってきた普遍的なキャラクタだとすると、ここらへんバフチンカーニヴァル論が深く関わってくるはずだ。不勉強なもんで、そのあたりスッキリと言語化できないのが残念だが、個別的な人間を一抱えにして一般化すると、カオスゆえに道化的な容貌になるのかもしれない。いや、そもそも各人それぞれが道化的な部分を抱えているのは明かで、時にははじけたいし、バカ騒ぎもしたい、でも社会秩序を守るためにそんなことはなかなかできないのだ。
凡庸には凡庸のしがらみがあり、善には善の矜恃があり、悪には悪の束縛がある。そういうものに囚われずに軽々と跳躍する道化は、俺たちにできないことを平然とやってのける!
みんな誰だって矛盾を抱えつつも沈黙している。そういう合理に徹しきれない部分がある限り、世界各国の神話に登場する、憎めない道化・トリックスターたちは、これからも活躍し続けることだろう。

高山宏の解説も熱い!

両義性

両義性というのはコンピュータ・プログラムでは最大の敵だが、ひょっとすると自然言語的な文化においてはもっとも重要な概念かもしれない。道化論を読み進めるに、その確信が高まってきた。

余談

本書を読んでいたら、すごい名前の学者が出てきた。その名も「J・P・B・デ・ヨーセリン・デ・ヨング」。説明もなく登場してたんで、有名な方なんでしょうか? ググっても全然ひっかからないんですけど。