情報主義の功と罪

概要

あらゆるものがデジタル化されてゆく。特に文章のデジタル化は顕著だ。
情報収集のための11の質問」も大事だけど、もっと大事なのは人生と情報との結びつきである。
そこで情報主義の功と罪ということで、以下の順に話を進める。

  • デジタル化してるんだから、好きなときに好きなように読ませろ!
  • でも、好きなように読んでると印象が薄くなっちゃう
  • 一般化すると、単に(文章や音楽)情報をデジタル化してるだけってやばいかも

情報主義の功を最大限利用する

私はRSSリーダーとしてBloglinesを使っている。
RSSを配信していない場合は「なんでもRSS」を使う。
それもダメなら、はてなアンテナを使い、Bloglinesのメールに飛ばしてRSSフィードとして読んでいる。以下参照
http://hail2u.net/blog/rss/hatena_and_bloglines.html

他には、はてなブックマークRSSから天気予報まで、要するになんでもかんでもBloglinesで読んでいる。正直、これかなり楽ちん。

RSSリーダーで読むことのメリットは主に3つ。

  1. 更新されたエントリーだけを読める。
  2. 複数のサイトをまとめて読むことで、時間の節約ができる。
  3. フォーマットを強制されずに好きな形式で読める。

要するに好きなときに好きなように読めるということなのだが、今回注目するところは3番目だ。
たとえば、荒俣宏のブログを見ていただきたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/aramata_hiroshi
Yahoo!ブログのデザイナーはケニア生まれですか!とツッコミたくなるくらい小さなフォント。しかもIEの「文字のサイズ」は無視してくれちゃうからタチが悪い。
書いているのが荒俣先生でなければ、とてもじゃないが読んでいられない。

一方Bloglinesならフォントの大きさも選べるし、うざい背景やデザインに影響されずに、シンプルにテキストを読むことができる。そもそも電子テキストというのは、お手軽に自分好みのフォーマットで読めるべきなのだ。
そのためにはRSSには要約でなく全文が載っていなければならない。
はてなダイアリーを使っている人でRSSを要約のみにしている人は、ただちに全文配信にすること。有名どこでも(デフォルトのまま)要約になっているところがあるので、非常に困る。
正直、RSSって何よ?って人がほとんどだと思うので、はてなRSS全文配信をデフォルトにすべきだ。(なってたらゴメン)

まとめ

  • 電子テキストは好きなときに好きなように読めるべき
  • いまのところ、そういうことが簡単にできるのはRSSリーダー
  • よってRSSは全文配信しろ

情報の印象について

さて、上記の論議は、これまでよくされていたことだと思う。しかし、この便利さに浸っていると結構ヤバイかもしれない。
それは印象と記憶に関係する問題である。

ある日、Bloglinesで読んだ記事の記憶を辿ろうとすると、あまりにも平坦であることに気づいた。のっぺりとした感じで妙に印象が薄い。特に、あの文章って誰が書いたっけ?という記憶が曖昧だ。たかが一週間ぐらい前の記事も思い出せない。
それもそのはずで、Bloglinesではすべて同じデザインで表示されてしまうから、見た目はすべて同じである。また、全文配信されていれば、わざわざサイトを開いたりしないから、ブックマークでもしないかぎり、「読んだ」という手続きを行わない。
これは前述の論に従うならばとてもよいことのはずだ、RSSリーダーでもYahoo!ブログみたいなフォントで表示された日には、いかに荒俣先生が書いていようとも即座に購読中止!だし、すべてが要約だった日には読むのに時間がかかってしょうがない。
しかし肝心の内容や印象が脳の中に刻まれていないとはこれいかに?
どうやら、普段なら気にもとめないサイトのデザインや、わざわざクリックして見るという面倒な手続きが、内容情報の記憶とセットになっているようなのである。
それに気づいてから、重要な記事は(Bloglinesでも全文読めるのに)わざわざそのページを開いて、そのサイトのデザインで読むことにしている。
記憶するには、これが意外と重要。

まとめ

  • 好きなように読むと印象が薄く、記憶に残らない
  • 印象を強くするために、ある程度は強制されたデザインに従おう

情報主義の罪

読みやすい形式で読むという便利さが、印象を薄めてしまうと論じてきたが、これは別にBloglinesに限った現象ではない。
たとえば青空文庫でテキストをダウンロードして、読みやすいようにルビ付き縦書き表示ができるビューアで読んだりする。そうやって読んだ小説の印象は、なんかみんな似た感じなのだ。
本で読んだときのように、岩波文庫で読んだ感じ、全集で読んだ感じ、ハードカバーで読んだ感じというものがまるでないので、全部が全部のっぺりとした印象になってしまうのである。
もっと極端なことを言ってしまえば、実世界の物質を通して仕入れた情報の印象はわりと豊かなのに、ディスプレイを通して読んだものの印象は一律に平坦なのだ。これは気のせいなのだろうか? それとも私が高度情報化についていけてないだけ?

いや、確実に失われているものがあるはずだ。それは茂木健一郎の言うクオリアである。
手にずっしりとくるハードカバーの感じ、紙をめくるときのなんとも言えない感じ、読み終わった後で本棚の一角を占めている背表紙を見たときのあの感じ……
もしかすると、このクオリアの印象というヤツは、本の中身そのものよりも大事なのではないだろうか?
本はそのテキスト情報だけがすべてだ!という情報主義的な立場からすれば、何を馬鹿なことをと思われるだろう。しかし、このような言語化できない感覚が、どれだけ記憶そして人生と深く結びついていることか。それを簡単に否定できる人はいないだろう。

デジタル化されたものは、扱いが楽なので、その課程で生じる劣化に気づきにくい。
Bloglinesで全文配信されたRSSを読んでしまうと、サイトの持つクオリアの情報が劣化する。同様に、単にコンテンツをデジタル化するだけでは、物質の持つクオリアの情報が劣化してしまう。

文章だけでなく、CDや絵画、デジタル化されているあらゆるものが、この情報劣化の危機にさらされている。店頭で見つけて、CDケースを手に取り、ジャケットを眺めながら買うか買うまいか悩んだ結果買ったCDの印象は、検索してワンクリックで買ったMP3音源の印象より確実に色濃い。
この事実を忘れてデジタル化を推し進めたり、ユーザビリティ論議したりすることは大変危険なことである。

まとめ

  • 電子テキストは、どうしても好きなように読んでしまうので、印象が平坦になる罠
  • 物質としての本やCDの強制されたアクセスの面倒くささは結構重要
  • 単にコンテンツをデジタル化するだけでは、情報が劣化する

※:あとで補足を書きます