茂木健一郎「クオリア降臨」

文學界で連載されていた文学を巡るエッセイ。
いわゆるクオリア主義の立場から文学を、そして現代を批評する試みであり、これまでの著作の中でもっとも科学者っぽくない。と言っても形而上学者として振る舞っているかといえば、そうでもなく、科学のダメなところを引き受けた科学者として語っている面も隠さない。そういう意味でも異色な評論になっている。
科学のダメなところ、それは再現性や普遍性しか信じていないところだ。サンプル数Nが無限大に近づいてゆくほど統計的信頼性は増す。逆に、サンプル数N=1などというものは歯牙にもかけない。
しかし、私を主語としたとき、サンプル数は常に1でしかない。科学が黙殺する個別性を引き受けているのが文学であるというのが茂木健一郎の主張である。
わかりやすくまとめておく。
大量のサンプルから普遍性を見出すのが科学。
一回のサンプルから普遍性を見出すのが文学。
というわけ。
そこにおいて現代の文学(および各種の文化)は、個別の一回性を引き受けているのか?
茂木健一郎は現代の文化が「スカ」ばかりだと言い切る。確かに、古典と言われているものは、なぜだか素晴らしい。美術も本物はアウラをはなっている。それはその作品が置かれている文脈には決して依存しない素晴らしさだ。そこに寄り添う批評を茂木健一郎は自らクオリア主義と呼ぶ。
これは文中で多々引き合いに出される小林秀雄、その(揶揄されて言われるところの)印象批評と呼ばれるものとほぼ同じである。
批評理論において、印象批評はまず棄却される。印象批評とは個人の印象に寄り添った批評であり、悪く言えばただの読書感想文にすぎない。というより現代の批評理論は印象批評からいかにして脱却するかを目指してきた。
だいたい私が感動したから、この本は感動的なんだ!なんて言われても困る。小林秀雄ぐらいの凄い人に言われるならともかく、そのへんのろくすっぽ読書もしない人に「これ超いいよ」と勧められても苦笑せざるをえないだろう。
だが前者と後者の言い分に特段違いはない。要するに印象批評は「あんた、それ間違ってるよ!」という否定ができないのだ。科学で言えばオカルトの世界である。
現代批評理論は批評における科学を目指してきた、その結果ポストモダンがどうのこうのと文脈にまみれ、わけがわからなくなってしまっているのも事実だ。
しかし、落ち着いてよく考えてみると、読書体験などというものは個別のものでしかない。他人がどう考えて名作を読んでいるかなんて、実はわからない。土台、体験などというものは言語化できないからだ。
これはまさに科学が直面している意識の問題である。茂木健一郎がテーマにしているクオリアの問題である。
現代の悲劇は、科学も文学(批評)も、ただ普遍性を追っていては見えない物がある、ということがわかってしまったことだ。一度、個別性の奈落を覗かないかぎり、再び普遍性の太陽を仰ぐことはできない。すでに我々はそういう時代に生きている。
その苦しい今を見つめるために、読んでおかなくてはならない本だ。

表紙の写真が何かに似ているような気がするんだけど……思い出せない。

余談

いちおう、突っ込んでおくと、

「逝ってよし」、「萌え」、「オマエモナー」といった「2ちゃんねる用語」からは、むしろ過剰なまでに他者の視線を意識し、自分のキーボードからはき出された記号がネットの向こうの他者に与える効果に小心翼々する書き込み者の群れが見えてくる。

「萌え」は2ちゃんねる用語じゃないですよ!