アントニオ・R・ダマシオ「感じる脳」

前回が「考える皮膚」だったので、というわけではないんだけど、今回は「感じる脳」である。
原題は「Looking for Spinoza」。神経科学者である著者が感情の研究を進めるうちに、スピノザを再発見してしまったというストーリーになっている。

ダマシオの理論を簡単にまとめるとこうだ。

感情とは、特定の思考モードと、特定の主題を持つ思考の知覚とを伴う、特定の身体状態の知覚である。

つまり感情は知覚であり、それは人間が生きるホメオスタシスの結果、生じているものだと論じている。これがスピノザの言う、感情(アフェクトゥス)や自己保存力(コナトゥス)と見事に一致しているというわけだ。
このように感情と身体を結びつけているので、心身二元論というデカルト的発想に真っ向から反することになる。だからダマシオの処女作は「デカルトの誤り」(邦題:生存する脳)なわけだ。

この話をもう少し整理しよう、一般に我々は身体反応を感情の結果だと思いがちだ。たとえば恐怖を感じれば、動悸がして体が震えたりする。しかしダマシオ流に言うなら、動悸や体の震えが、脳にマップされて、結果、恐れが生じるというわけである。吊り橋効果なども、例証する一例であると言えるだろうか。
ただし本書は、ある種の感情(たとえば恐れ)が、なぜあのように感じるのか、というクオリア問題には触れない。あくまで身体と感情の発生の関係が主題になっている。

ダマシオの意見を眺めていると、なんだか人間がただの機械であるように思えてきて、反発したくなるかもしれない。しかし感情はそんな単純なものではないと詳細にメカニズムを説明している。なぜなら内部状態を保持していて、それが次々に反響しあってゆくので、非常にダイナミックな動きをみせるからだ。
たとえば、ある絵を眺めているうちに、最初は不快の感情しか抱かなかったのに、段々と心地よくなってゆくということはあるだろう。視覚刺激としてはなにも変わらないのに、まるで違うものを見ているかのような想いにひたれる。

さて理論の詳細は本書に譲るとして、個人的にはダマシオがスピノザに惹かれていった理由が気になった。
ダマシオは若い頃に「エチカ」などを読み、そこそこ感銘を受けてはいたようだが、研究で共通点を見つけてからののめり込みようは尋常ではない。
本書もダマシオがスピノザの住居や、墓をたずねるところから始まっている。

どうやらスピノザにはある種の魔術的な魅力があるようだ。それはエチカの数学的記述スタイルであったり、彼の生い立ちや生き様であったりするのだろう。彼は徹底的に異端者だった。それは本書の第6章を読めばわかる。
この第6章がスピノザの簡単な伝記になっていて、実にわかりやすいし面白い。ここで紹介されているウリエル・ダ・コスタ事件も非常に興味深い。スピノザの哲学を、彼がレンズ磨きをやっていたことと切り離しては語れない、とは高山宏の言葉だが、そのへんもバッチリ押さえている。スピノザをあまりよく知らない読者は、最初に第6章を読んでおくとスムーズに読み進められるだろう。

ヘーゲルは「哲学をやりたければ、スピノザになれ」と言った。アインシュタインスピノザにシンパシーを感じていたようだ。

私もエチカには衝撃を受け、いたるところで宣伝していたりする。一度読んだら、絶対に離れていかない強いインパクトを持っているのだ。そして今回、現代の科学者の意見を通して、新たな側面を再発見したような気がした。我々は、これからもスピノザを探し続けることになるのだろう。

余談1

245ページでチェスタトンの「見えない人」のネタバレをしてるので、未読の人は気をつけるように。

余談2

スピノザの死因は結核だとされているが、とくに証拠はない。近年では、マーガレット・ガルアン・ファーという思想家が珪肺という職業病で命を落としたのではないかと述べているとのこと。
つまりレンズ磨きのキラキラとした粉塵が肺一杯につまってしまったのではないか、ということである。

余談3

本書のなかで何回も歴史家のサイモン・シャーマによると……という記述が出てくる。余程お気に入りらしい。
わが家じゃ「風景と記憶」がドーンと本棚を占拠してるにもかかわらず読んでませんよ。(厚すぎて読むタイミングがわからない)