種村季弘「澁澤さん家で午後五時にお茶を」

もっとも的確に澁澤龍彦を評価できるであろう種村季弘による、澁澤龍彦の著作評論と評伝集。
澁澤龍彦という人物をさまざまな角度から、まさに種村流の万華鏡的視点から捉えていて、含蓄があるだけでなく、愉快である。また出棺の辞にあたってはプリニウスを引いて、その哀悼を示しているあたりは、本当に泣ける。

中でも対談が面白い。種村季弘の硬質な文体とは違った達者な口ぶりは、とにかくお茶目なのだ。
澁澤龍彦との対談では、両者がメジャーになってきて、中高生から手紙が来たり、精神病院の患者から毎日変なものが送られてきたらしい。クラスのいじめっ子を魔法でやっつけたいんですが、どうすればいいんですか?とか。
この対談で特に気になったのが、今の小説の現状について語っているところだ。70年代後半の対談であるが、アメリカ小説の影響なのか、最近変な小説がいっぱい出てきたという嘆きから始まり、

澁澤 表現の仕方が変わったんだろうね。表現に厳密さがなくなったし、表現と生きていることが同じようになったのかしら。

と続く。
アクチュアリティーというものは、必ずしも現実に生きているということをそのまま表現することに宿るわけではない。近年、その傾向はますます高まりつつあるような気がして個人的にも危惧するところだ。(一方で極端にロマン的なものもあるが)

また出口裕弘との対談では種村季弘が執筆スタンスについて語っている。

「何かを書いて、しかもそれが何も書いてないっていう風に書きたいなあ」

なんとも卓越した流儀ではないか。


澁澤龍彦種村季弘も鬼籍に入ってしまった今、アクチュアリティーのある幻想の国へ導いてくれる人物がどれだけいるだろうか?
今なお、若い人々にも澁澤龍彦が読まれていることは、その著作が永遠の輝きを放っていることを示すと同時に、氏を超える人物がいまだ現れないことをも表しているのかもしれない。

なにげにあなどれない学研M文庫

余談

荒木飛呂彦風に書くと「澁澤さん家でゴゴゴ時にお茶を」
あながち間違ってもいないような。