ランダムはもうお腹一杯

最速なのができたっぽいので、とりあえず偉そうなことを書いておく。
http://la.ma.la/blog/diary_200511070134.htm

Tropyに驚いたのは、Tropyすげーという人が意外に多かったことだ。
ネーミングのよさなのか、結城さんのお人柄なのか、確かにリロードはしたくなるけど、それほど牽引力がある斬新なものとは思えなかった。
それに似たようなことはmala氏が前からやってたような……むしろ我々はこういうランダムによる創造力喚起を通り過ぎてきたじゃないか、ランダムはもうお腹一杯、というのが素直な感想だった。
通り過ぎてきたというのは、アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」のこと。シュルレアリスムの象徴とも言える著作で、思いつくままに文章を綴っていった小説である。「溶ける魚」の限界は、それ自身にあって、ブルトンが「溶ける魚」を推敲してしまったことだ。折角の自動筆記が台無し、でもそうしなくてはまともな本にならなかったという悲劇。
自動筆記とランダムはもちろん違うものだけど、規則性を廃した脈絡のなさという意味では同じだろう。

もちろん規則性によって導かれる創造空間にはその規則性に応じて限界がある。かといってもランダムによって導かれる創造空間は期待するほど広くない。っていうか飽きやすい。
それは自動書記やダダ・シュルレアリスムの方法論が正当なメソッドとして受け継がれていないことを見ればあきらかである。受け継がれていたら、とうの昔にTropyができあがっていたはずだ。

ただでさえインターネットはホメオスタシスよりもトランシスタシスが高い空間なので、単なるランダム性では舵取りがきかなくなるだけだろう。

と言ってもTropy的なものに全く未来を感じない、というわけではない。偶然というのは大事にしなくちゃいけないだろうが、ランダムだけが偶然というわけではない。Amazonのオススメ商品だってある種の偶然の出会いを演出しているのだから。
方向性としてはランダムでどうのというのはもう絶望的なので、半ばランダムで半ば規則的な偶有性という概念がヒントになると思われる。ガチガチに整ったWikiよりはTropyがそれに近いのは確かなので、これを気に色々発展してくれたらなあと期待している。
具体的にはどうすれば、という問いに対しては、今のところアイデア皆無、平謝り。なので、とりあえずmala氏に投げておきます。

ついでにアサマシ

エントロピーといえばこれ。

なんにせよ、Tropyで遊んで、あー面白かったオシマイ、にならないといいな。という希望を込めて。