「クオリア日記」を読む その2

今日はクオリア日記の過去ログを数時間読んだ、でもまだある。とにかく濃くて長い。
そして過去の茂木健一郎は非常にアグレッシブで、最近はかなりまろやかになってきてるんだなあというのがわかった。昔は2ヶ月に一回ぐらいTV局に抗議の電話をいれてたりする(笑)
そういう可愛らしい?些末な一面はさておき、茂木健一郎の問題設定の面白さと重大さはやっぱり本物だ。悲観的に見れば、茂木先生が抱えているハードプロブレムを彼自身が解くということはできないだろう。それでも提示している問題は輝き続けることだろう。
茂木健一郎のことを知ったのは松岡正剛の「千夜千冊」で紹介された頃だから、2003年の初頭だ。それまで出てた著作を一気に読んで、大変な問題に挑んでる人がいるもんだと思った。実のところ、最近の著作は読んでいない。(これから読む予定)
なのでここ最近の問題設定は講演のmp3で聞いた内容でしかないのだが、

などの問題に取り組んでいるようである。
どれも意味深い問題だと思うが、特に興味をそそられるのは、茂木健一郎が文脈主義に対して取り組む態度だ。これは芸大で教えるうちに顕在化したものだと語っている。文脈主義について説明すると長くなりそうなので、後日にまわすことにするが、作品を創作する人間はもちろんのこと、作品を受容する立場の人間も、一度向かい合わなきゃならない大問題である。

芸大の授業のmp3は非常に面白い。何が面白いかというと、茂木健一郎自身も一緒に考えながら教えているところだ。理論として完璧に体系化され裏打ちされたことを教科書的に教えているわけじゃなく、ちょっとやそっとじゃ解けそうにない問題を真剣に論議している。なので、ふむふむと感心するばかりでなく、自分だったらこうだよなあ、と思索を誘発させられるわけだ。
クオリア日記を読み返しつつ、講演をmp3を聞きつつしていると、茂木センセーと一緒になってものを考えているような気分になってくる。これはとても贅沢なことだ。この疑似体験を私一人だけ堪能しているのはもったいないと思うので、興味のある人はぜひ時系列に沿いながら講演のmp3を聞いて、一緒に考えてほしい。
くだらねえ勉強や仕事なんかほっぽりだして、こういうハードプロブレムについて考えてみる。それこそ人間という知的存在として生まれてきた意味があるってものだ。

余談

最近は料理をしながら講演のmp3を聞いてます。