「クオリア日記」を読む その1

以前のエントリーでも書いたように、茂木健一郎の講演をポッドキャスティングして聞いている。あまりにも沢山あるので、最初はそそられるタイトルのものだけを落としていたのだが、あのライブ感が面白くて、軒並みダウンロードした。
やわらかな語り口に好感が持てる一方で、論議が白熱したときに現れる凄みが茂木健一郎の特長なのだろう。クオリア日記でも、ときどき爆発している。過激なところを引用すると、こうだ。

講談社メフィスト賞作家の文学が新しいなどと提灯持ちしているやつらなど、知るもんか、幼稚で下劣なやつらなんて、どの時代もいるじゃないか、それがどうした。なんで、人間の精神の高貴な部分、美しい部分を書かない。清涼院流水とかいうのが千の密室殺人とか書いているらしいけど、くだらなさすぎ、シャノンやチューリングの堕落した下僕だろ。
   (中略)
ゲーテだったら会ってどんな世界観か聞きたいと思うけど、舞城王太郎の哲学なんて、別に聞きたいと思わないじゃん。美しく気高い核心を外して、どんどん昆虫のような奇妙な特殊に向かっていて、それを商売になるからと賞賛しているのが今の一部の日本の浮かれたやつらじゃないか。
電車男がどうしたって言うんだよ。
西尾維新の特集がユリイカで出たからって、それが何だっていうんだ。
茂木健一郎 クオリア日記: 爆発工作集団の不在

私は清涼院流水舞城王太郎西尾維新も読んでいる。ファウスト以降はげんなりして、あまり読んでいないのだが、舞城王太郎の文体は結構好きだし、西尾維新には輝くものがあると思う。
それでも上記のような率直な意見を目にすると、かえって爽快な気分になる。やっぱり誰かがこういうことをグサっと言わなきゃいけない。

とはいえゲーテと比較するのは可哀想だ……と、最初は思った。
しかし、よく考えれば公に出版される小説を書くということはゲーテと比較されることなんだ。小説家を名乗っておいて、「いやゲーテみたいな大文豪と自分みたいなのを比較しないでよ」なんて言うのはただの甘えにすぎない。とても厳しい態度ではあるけれども。

茂木健一郎は閉塞的な現代と闘おうとしている。文脈主義に対抗してクオリア原理主義を表明し、現代の文化を「スカ」と言い切ってしまうのは、正直言えばリスキーなだけだ。それでもあえて綴っている態度に真摯なものを感じる。

というわけで脳科学者としての茂木健一郎というより、闘う思想家としての茂木健一郎に興味が湧いたので、クオリア日記の過去ログを読みあさっているところである。2001年から毎日書かれているのでとんでもない分量で、何時間読んでも終わる気配がない。全体に目を通したら、もう一度まとめてみるつもりだ。