松下電工汐留ミュージアム 「アール・ブリュット/交差する魂」

アール・ブリュットあるいはアウトサイダー・アート。正統な美術教育を受けたことのないものによる生の芸術。
服部正の「アウトサイダー・アート」を読んでから、展覧会があれば飛んでいくようにしている。

個人的にはアート=アルス(技術)論の立場をとっているので、ただ精神疾病による異常な絵というのをアートとして受容する気にはなれない。もちろんアウトサイダー・アートだからといって、そこに技術がないわけではない。ただその技術がいわゆる伝統的な美術教育に組み込めない異次元のものであるのだ。下手をすると、画家などより数倍も絵を描いている場合だってあるのだから、技術的に向上するのはあたりまえだ。

さてアウトサイダー・アートのビョウキ的な面は精神科医や病跡学の専門家にまかせておくとして、それを一般人の我々がアートとして受容する動機とはなんだろう? ただの美というものであれば、いわゆる正統な芸術のほうがしっくりくるはずだ。
それはおそらく未知への恐怖と好奇心なのではないだろうか?
彼らはとにかく憑かれたように絵を描き続ける。その描く動機、理由Xがあった描いた(描かざるをえなかった)というとき、そのXの正体がわからない……あの不可解さ。そのどうしようもない理解しえない断絶。個人的には、それを体験するためにアウトサイダー・アートの本物を見に行く感じがある。やはり取り憑かれている。

今回の展示で、最初にガツンときたのがカルロの作品。これまで書籍で見たことはあって、それほど衝撃を受けなかったというか、きれいなデザインだな程度に思っていた。しかし実物の放つ、ある種の禍々しさは異様だった。恐ろしく規則正しい配置、4という数字へのこだわり、感情を押し殺したような描写に完全に取り憑かれてしまった。鳥肌が立ち、他の作品を落ち着いて見ることができなかったほどだ。

もうひとつ取り上げるなら、戸來貴規の日記だ。これは文字のような絵のような記号のようなグラフである。所々文字的なものは読み取れるのだが、それを図化してしまい、一枚の絵としてしまっているので、本人以外には誰も読めなくなってしまっている。ジョイスフィネガンズ・ウェイクで、世界で初めて使われる言語でそれを綴った。同様に、いやそれ以上に「読む」ことが困難な作品なのだ。やはり断絶がある。

我々は文化的な作品を、実は表現ではなくコミュニケーションとして捉えている。純粋な表現ならば、それを受容するときに解釈を差し挟まなくても良いはずなのに、コミュニケーションとして捉えているために解釈し反応しようとする。しかしアウトサイダー・アートは見るものを突き放す。まるで見えない壁にぶつかったような衝撃を受ける。

まだ本物を見たことない人は、これを機会に一度見ていただきたい。入場料も500円と大変、お得だ。