大橋洋一「新文学入門」

もしもひとつだけ学問を選択せよと問いかけられたら、個人的には批評理論(文学理論)を選びたい。
それは「文学」を読むことだけに留まらず、「音楽」を読んだり、「TV」を読んだり、「他人」を読んだり、「世界」を読んだり、おおよそ人間が認識するものはことごとく批評眼をもって読むことができるからだ。もうこれは人間の生きる活動そのものである。
それに批評理論って単純に面白いのだ。

本書は筒井康隆のベストセラー「文学部唯野教授」のタネ本であるテリー・イーグルトンの「文学とは何か」の解説書というスタイルをとっている。また大橋洋一本人が唯野教授のモデルでは?という噂がまことしやかに囁かれたらしい。とはいえ解説書でありながら、批評理論全体に目配せが利いた構成になっていて、イーグルトンがとりあげていなかったフェミニズム批評やポストコロニアル批評なんかもちゃんと押さえてある。
実のところ「文学とは何か」自体が入門書なのだが、文学理論はもう異常に高度化していて、哲学や現象学精神分析学などの基礎知識がないとさっぱり太刀打ちできないような状況なので、入門書といいながら結構難しい。それを更にわかりやすく導いてくれるというのだから大助かりな本なわけである。
目次は以下の通り。

第1講 メニッポス的風刺の誘惑
第2講 閉ざされた窓(ロシア・フォルマリズム
第3講 文学の誕生、作者の誕生(ニュークリティシズム、リーヴィス)
第4講 読者の運命(受容理論
第5講 ありえない遭遇(構造主義レヴィ=ストロース
第6講 中心と周辺の消滅(脱構築デリダ
第7講 無意識の発見(精神分析、主にフロイト
第8講 主体の分裂、他者への語りかけ(精神分析、主にラカン
第9講 フェミニズムからの呼びかけ(フェミニズムジェンダー

自分は「文学とは何か」をすでに読んでいたので、復習がてらと思ったのだが、期待以上に得るところが多かった。

個人的に興味があるのは読者モデルを中心に考える受容理論の方法で、これはミステリを考えるにおいて非常に力を発揮する。叙述トリックを捉える際には特に有効だ。
ただ受容理論の本は批評理論の中でも難しい著作が多いのが大問題。ウォルフガング・イーザーの「行為としての読書」とか、わかるにはわかるのだが、めんどくさすぎる。なので、たとえばバリバリ受容理論、読者中心主義批評の立場からミステリを分析した本があるといいのにと思う。

批評理論(そして現代哲学)におけるもう一つの壁と言えばデリダ脱構築。自分も色々と読んでいるが、こんなにわかりやすい簡潔な脱構築の説明は初めて目にした。脱構築の場合、あんまりわかりやすすぎるのもどうかと思うが、入門ならばこれくらいが丁度良い。ついでに、これまであまりピンときていなかった脱構築脱構築可能であるという説明も大変わかりやすく、一世風靡した(んだよね?)脱構築の問題点を上手い具合に浮かび上がらせている。
ラカンの理論も、かくあるごとに難解やら「ラカンはわからん」やら言われることが多いが、単純化しすぎな感はあるものの、明快に読み解かれているので安心だ。
ジェンダー理論に到っては、これまでの軽妙な雰囲気から一歩踏み込んで大橋洋一個人の考察も展開されていて、なんだか胸を締めつけられるような切ない感慨がわき起こってきた。これは批評理論がただの思弁的な代物ではなく、人間学として力を持っている証拠だろう。

それで批評理論がいったい何の役に立つのか?
当然、批評する立場にとっても重要なのは明らかだが、実は創作する立場にとっても使えるのではないか?と考えている。
ある意味ではこれらの批評に絶対に回収されないようなものが書けたとすれば、それは間違いなく新しい地平へと踏み出したことになるだろう。つまり批評理論の裏をつくような書き方があるとするなら、まったく未知の領域へと進化できるのではないか、ということだ。
こういうことを実践している人はほとんど皆無で、メジャーなところでは筒井康隆ぐらいかもしれない。そういう意味からも「文学部唯野教授」は面白い。

文学部唯野教授」がベストセラーになったんだから、批評理論自体がもっとメジャーであってもいいと思うのだが「いやぁ批評理論って面白いよね」みたいな話をすると「はぁ?」という顔をされる。批評理論は頭でっかちなアカデミックなものだと考える人も多いかもしれない。そういう人は、単純に思弁的なSFだと思って読んでみるといいだろう。また、まったく知らないという人も、最近は手に入りやすい入門書も多いので、適当なところから手をつけてみると新しい発見があるに違いない。

批評理論についてはまだまだ色々書きたいことがあるのだが、今日はこれまで。

もちろんこっちも。

余談?

第4章「読者の運命」でエラリー・クイーンの中編「神の灯火」について触れられているのだが、これがまた壮絶にネタバレされているので、ミステリファンの人は要注意!