茂木健一郎「「脳」整理法」

「青白い炎」と平行して読んでいたのだが、先に読み終わってしまった。

ちょっとアレなタイトル*1なので、買うか買わざるか、どうしようかと思っていたのだが、著者近影に負けて購入。

茂木健一郎 クオリア日記: 「脳」整理法 できる

新しい方の千円札にそっくりなのだが、茂木健一郎ならばむしろ旧千円札を指向しそうだ。やっぱり髪が多すぎたのだろうか?あと東京芸大の講演を聴いている人は、イラストにも注目!

本書は、世界を神の視点から普遍的にとらえる「世界知」と、個人の脳の内からクオリア的にとらえる「生活知」がテーマである。そして、そのふたつの知が融和するところに新しい科学と文化が来るだろうと説く。
そういう意味では単純な「整理法」の本ではないだろう。「整理法」という言葉には、ものごとをある単純さに還元することで、大事なことが捨象されてしまいそうなあやうさがある。しかし、この本にはそんなことはない。一般化を推し進め捨象を旨とする科学的な「世界知」と同時に、個別的な視点「生活知」を語っているからだ。

今回、「新しいな」と感じたところは、自然言語に関しての言及である。科学や、特に数学は論理的な言語体系を用いて定式化されている。これを究極まで推し進めようとしたのがヒルベルト形式主義である。しかしゲーデル不完全性定理で、完全な数学記述言語というのは崩れ去った。それに、どんな論文だって自然言語を使っていないものはない。ただ数学で用いる論理的な言語が、あからさまに曖昧な自然言語に比べて有用なのは確かで、それを基軸に近現代科学は成り立っている。
旧来用いてきた自然言語ではなく、その「外」の言語を操るところに科学があるとするならば、

科学の本質は、良質の「詩」に近いのです

という、ある種、逆説的な言葉が心に響く。

その流れで、「主語を入れ替える」というアプローチで一般化の原理を自然言語を用いて説明しているのは、意外と面白かった。そういう一般化、科学的な立場である「世界知」の視点の代表としてアインシュタインの言葉を引いている。

人間の価値は、何よりもその人がどれくらい自分自身から解放されているかということで決まる

だが「わたし」はあくまで「わたし」である。他の誰になることもできない。そこでクオリア主義者としての茂木健一郎が顔をのぞかせる。そのキーワードとなるのが半ば規則的、半ばランダムである状態を示す「偶有性」という言葉である。
本書の趣旨としては、むしろ「生活知」の方にこそ、他の本では見ることの出来ない言及があるのだが、それは、それぞれの個人が受け止めるべきだろう。

裏表紙のアレな著者近影が目印!

*1:「「超」整理法」を意識しているのか?