ヒュー・ケナー「機械という名の詩神」

テクノロジーが文学にいかなる影響を与えたか? を検証するという著作。
電子機器が発展した今でこそテクノロジーと文学という繋がりは容易に連想できるものの、これが書かれた1987においてはなかなか受け入れられなかったのではないかと予想される。今になって翻訳されたのもむべなるかなというものだ。

エリオットは観察する

一見するとなんということはないエリオットの詩の中に、都市化されてゆくロンドンのテクノロジー、メディアの変遷が見て取れるという指摘は面白い。エリオットの観察眼もさることながら、それを発見するケナーの手腕に驚かされる。

パウンドはタイプを打つ

詩を記述する上で、タイプライターというハードウェアと辞書などのソフトウェアが、ある種の集合知としてパウンドにひとつの様式を与えたという論。システムはいつでも、意識的に、あるいは無意識的に人々に影響を与える。

ジョイスは書写する

フィネガンズ・ウェイクをものしたジョイスにおいては、現代の我々の発想に近くなる。タイプライターの隣接するキーの打ち間違えなどを意識させる記述。植字の誤りを使ったネタ。ここに印刷技術との密接な関連が見られるというわけだ。
ジョイスは入念に校正を行ったという。それもまた文章を推敲する以上に重要な作業だったのである。

ベケットは思考する

平易な単語と文法を使用しているにもかかわらず、読めば読むほど意味不明になってゆくベケットの文章を、スパゲッティコードと化したプログラムと対照させることで、根本原理を暴き出している。まさか文学評論でPascalコードによる『ワット』を見るとは思わなかった。
ノンセンスとは論理を追求した先に現れるというエリザベス・シェーエル『ノンセンスの領域』も併せて読むとよいだろう。


どれも刺激的な論ばかりでぐいぐい読まされた。ヒュー・ケナー死ぬの早すぎたよ……