T・R・ピアソン「甘美なる来世へ」

トリストラム・シャンディの脱線、南部ゴシックのストーリー、meets ポストモダン糸柳文体。
一行目からして、これだ。頭がくらくらする。

それは私たちが禿のジーターを失くした夏だったが禿のジーターはジーターといってももはや大半ジーターではなく大半スロックモートンにたぶんなっているというか少なくとも大半スロックモートンになっているとたぶん思われていてそう思われることが大半ジーターだと思われることより相当の向上ということになるのはジーターには大した人間がいたためしがないのに較べてスロックモートンたちはかつてはひとかどの人間だったからであるがただしそれも金がなくなり威信も消えてしまう前の話であって今となっては空威張りと汚名と漠たるスロックモートン的風格が残るばかりでありそんなものは全部合わせたところでおよそ騒ぎ立てるほどの遺産ではないのであるがそれでも空威張りにせよ汚名にせよ漠たる風格にせよどの一つを取ってもそれだけでジーターたちによって試みられ達成された発展総体を凌駕していると言ってよく何しろジーターたちといえば昔から地面をひっかき回してはきたものの農業で物になったわけでもなく家畜の売買に手を染めても売買もやっぱり物にならず結局鶏小屋の建設に精力を注ぐに至ったもののこの鶏小屋たるやはじめからグラグラもいいところでその後ますますグラグラになっていったのであるがそれでもこれは雌鳥や斑入りの小さな茶色い卵やアンモニアの雲と並んでジーターの発展の主たる成果でありさらにアンモニアの雲についていえばそれ自体はおそらくジーター最大の達成であろうがただし特定個人のジーターなりジーターたちの特定グループなりが積極的にその達成に貢献したわけではなく逆にその達成を阻止できたわけでもなかったのであるがいずれにせよそんなわけで禿のジーターが、デブのジーターを花嫁付添いとして、 1942年6月12日土曜日にメソジスト教会の聖域においてブランクストン・ポーター・スロックモートン3世と誓いの言葉を交わしたのちにニーリーの町なかに新居を構えたとき、禿のジーターはこれで雌鳥とも鶏小屋とも頭上を覆うアンモニアの雲ともおさらばしたわけであるがアンモニアの雲についてはおそらく 1942年6月にもすでに広がりはじめていたと考えられるものでありその根拠はアンモニアの雲はほぼ毎年6月になると広がり出しそのまま8月までどんどん膨らんでいって9月に至るのが常であったからで、特にこれから語ろうとしている年の前年のとりわけ8月ととりわけ9月にはアンモニアの雲が町の境界までじわじわにじり寄ってきて貯氷庫にとっては脅威の様相を呈したのであるがまあこれはこの季節には恒例かつ月並な出来事と言ってよく、なかんずく8月そしてなかんずく9月にはそうであるゆえ、かくしてその年も私たちはダーウッド・ブリッジャー氏がスロックモートン宅の外壁板に梯子を立てかけて二階にのぼり寝室の網戸に鼻を押しつけて額に手をかざし禿のジーターに呼びかけわめきどなって禿のジーターが永久に我々のもとから去ったことを確認するまでは今やごく普通となった夏を過ごしていたのである。

内容はいわゆるアメリカ南部の片田舎で起きるセックス&ヴァイオレンスの南部ゴシック。個人的にちょっと苦手なジャンルで、その世界観には入り込めなかったんだけれども、話の進行構造が非常に面白くて、むしろそれを分析しながら読んだ。
特に1章の構造がしっかりしている。まず冒頭のこの眩暈がするような長々とうねくねった文体で、全体の概要をぼんやりとではあるが説明しているのだ。先に進むにつれて、それらがゆっくりとではあるが解きほぐされてゆく。
最初は霧の向こうにかすんで見えるキマイラが、近づくにつれ、その部分がはっきりと見えてくるという感じだ。しかし、その実体が異様な造形であることには変わりない。
ストーリー自体を面白がる人の方が多いだろうが、実験文学マニアならば、この文体にまず痺れるだろうし、構造の緻密さに感嘆するだろう。これだけ複雑な文体にもかかわらず、それなりに読みやすいのは訳者柴田元幸のさすがの手腕。装丁もかっこいいので、単純に「こんな本持ってるんだぜ」というネタとして本棚に飾っておくだけでも、お勧めだ。