三橋順子「女装と日本人」

神話の時代から現代まで、日本における女装の受容と様相を丹念につづった新書。
筆者自身が常日頃から女装をしている「女装家」であるだけに私小説のような生々しさがありながらも、同時に研究者としての手腕をふるった歴史的資料を背景の読解が併存している風変わりな本だ。

絵巻物の読解は網野善彦「異形の王権」のようなスリリングさがあるし、ここ最近の状況としては作者自身がか関わってきた女装コミュニティの体験談が見事に生かされていて、思わず引き込まれる。男と女、考古学と考現学、セックスとジェンダー、自己と他者、多元的な軸が交錯するなかで描かれていくことは、大きな壁で仕切られている性別という境界を軽々と超えてゆくトランスジェンダーの存在だ。
それを手放しで賞賛するのは、フェミニストが陥ったアンドロギュヌス礼賛のようで、個人的には肩入れしないわけではないが納得できない部分がある。それでも二分法で排除するのではなく、受容する「あそび」を文化として持っている日本は、やはり素晴らしいというか面白いと思わざるをえなかった。

いわゆる普通の男や女が、ナイーブに男や女であると疑わない状況はたしかにある。それにゆさぶりをかけるのがトランスジェンダーという存在だ。彼/女たちは自らの存在そのものが多様性の旗印になっている。逆に言えば自ら体現しているだけに、それはひとつの重荷ともいえるだろう。
しかし、そういった性の越境を考えたことのない人による、ライトな意味での女装あるいは男装というのもあるだろう。それは仮装と呼ぶべきなのかもしれない。本書ではあまり扱われていないが、もっと広いレンジで異装(トランスヴェスタイト)の「読み」も気になるところだ。

本書は新書とは思えない分厚さにもかかわらず、その濃度は半端ではない。専門書としてはスッキリとはしていないが、著者自身の葛藤のようなものが直に伝わってくる好著だ。

余談1

鶏姦の語源は、「男をもって女となす」という意味のケイ(「田」の下に「女」)の字であり、それが同音の鶏に変わったということらしい。

余談2

欲望という名の電車」の主役である女教師を篠井英介が演じることに決まったとき、テネシー・ウィリアムズの遺族の反対で公演中止になってしまったらしい。テネシー・ウィリアムズの遺族って三島由紀夫の遺族みたいですね。