クリストファー・ノーラン「ダークナイト」

悪い評判を一切聞かない珍しい映画。所詮勧善懲悪のアクション映画だろ?と斜に構えて見に行ったんだけれども、予想を上回る傑作だった。メメントの監督だし外れることはないだろうとは思ってはいたけど、脚本・演出ともにここまで作り込まれているとは!

個人的に注目したのは全体の構造におけるジョーカーの役割。ジョーカー=道化論をふまえた作りになっていて、山口昌男監修かと思ったほどだ。自分も一時期はまっていて「道化の民俗学」やら「道化と笏杖」やらを読みあさっていたことがあった。
このジョーカーという存在が、一見、単純な善悪の対立構造に見えなくもないストーリーに深い味わいを与えている。わかりやすくするために、レヴィ=ストロースっぽい感じで構造を図にしてみよう。

ゴッサムシティーでの基本的対立は、警察と悪党による単純な善悪の対立だ。警察は法でもって正々堂々と悪党を裁こうとする。悪党にもまた悪党のルールがあり、きわめて合理的に行動している。
うまく法の網をかいくぐって手出しできないところまで逃げれば悪党の勝ち、その前に捕まえれば警察側の勝ち、というわけだ。非常にわかりやすい。
しかしバットマンは法に縛られることはない、いわばルール無用のならず者として善をなす。図にあるとおり、ルール無き混沌の側から善を指向している運動だ。トリックスターとしてのヒーロー像。
それに対して同一の存在ながら悪を指向する運動として表象されるのがジョーカーだ。混沌の使者として、秩序を破壊してゆく。悪党のように合理的に悪をなすわけではなく、バットマンをやりこめる行為が結果として悪業になってしまうだけなのだ。

さて道化とは対立項の両方の要素を併せ持ち、それを気まぐれに反転させる役割を演じる。あるいは仮装をしたり、自在に姿を変える。また愚者としての一面もあるが、同時にすべてを知っている不思議な存在でもある。このあたりはシェイクスピア演劇に登場する道化を見てもらえばよいだろう。
バットマンジョーカーともに道化=トリックスターであることは両者が顔を隠しているところからも明らかだ。ジョーカーは女装をしたり留置場でもメイクを落とさないし、バットマンがマスクを脱ぐとき、それは存在の死である。
何も考えていないと主張するジョーカーが実に計画的に見えたり、バットマンが財力や秘密兵器ですべてを知りうる存在であるところも、実に道化論そのものだ。

また、再び上記の図を持ち出すなら、ジョーカーの手下が妄想癖のある人間であることも面白い。秩序だった善からも悪からも受け入れられない彼らは、図で言うところの三角形の上の部分に相当する存在であるわけだから、まさにジョーカーそのものなのだ。そう考えるとジョーカーとは存在と言うよりは現象というべきなのかもしれない。
ジョーカーによってトゥーフェイスが誕生してしまうというのも、上手い設定。

こういった道化論の背景を脚本としてふまえているだけではなく、演出としても生かしているところがまた見事。細かい話になるけど、ジョーカーが病院バスをジャックして、そこに居合わせたニュースキャスターに脅迫の原稿を読ませるシーンがある。注意して見ると原稿をめくり上げるたびに、用紙が上に飛んで行っていることがわかるだろう。つまりキャスターは逆さづりにされているのだ。
このような画面の反転、あるいは立場の反転の構図は、いたるところにでてくるので注意して見てほしい。

最期に、いわば現象としてのジョーカーは、一般市民達がモラルに則った選択をすることで崩壊する。それと同時にバットマンも闇へと消え去るのだ。そう考えてゆくと「ダークナイト」というタイトルにもいろいろな意味を感じてしまう。
また全体の解決を大団円で迎えるのではなく、すっきりしない宙づり状態にしているところもイイ。

長々と書いてきたけど、こんな七面倒なことを考えなくても十分に面白いエンターテイメント性も持っている。特に何も考えずに見ても、その深みに触れることはできるようになっていると思うので、ぜひ映画館で堪能してもらいたい。あっという間の150分だ。