石井達朗「異装のセクシャリティ」

twitterといえば女装、女装といえばtwitterという通念が流通している昨今、女装のなんたるかも知らずに下手なことは語れない、という理論派なので図書館から借りてきた。新装版も出ているようだが、古い版のもの。
ここでいう異装というのはトランスヴェスタイトのことで、男性による女装、女性による男装を指す。フェミニズム理論→クイア理論と読み進めてきた自分としては、twitter云々抜きにしても前から気になっていたテーマではあった。トランスヴェスタイトというテーマはいわゆるセクシャリティの理論というだけでなく、祝祭論にも関わってくるからだ。一年に一回だけ男性と女性、権力者と一般人が役割を入れ替えるという祭りは至るところに存在する。

読み始めてすぐわかったのだが、本書はセクシャリティの話がメインであり、異装あるいは異装癖の話はあまりない。また作者は演劇論が専門らしく、ギリシャ演劇から現代演劇までの中でゲイ、レズビアンフェミニズムの文化をなぞる形で進行してゆく。
異装を期待した自分としては期待はずれだったのだが、内容としては非常に興味深い内容だった。祝祭論、文化論ともクロスオーバーしながらということで、その豊富な話題から読ませる。

まずギリシャ演劇からエリザベス朝の演劇まで、基本的に俳優は男性のみであった。女性役は少年が演じていた。またインドの古代演劇などにおいても男性のみの演劇は多くみられる。それらを同性同士で秘密にとりおこなわれるイニシエーションと比較してみせる。
ここからもわかるように、演劇はセクシャリティの問題と親和性がある。現代演劇においても、その活動が顕著で、海外のアングラ演劇は特にそういう問題を多く取り上げていた。しかし日本のアングラ演劇となると男性中心的あるいは男尊女卑的な劇団構造であり、セクシャリティへの問題提起がほとんどできていないことを指摘している。たしかに寺山修司は「毛皮のマリー」などを書いてはいるもの、劇団としてはきわめて男尊女卑的であったということだ。
また最終章で語られるレズビアン演劇の雰囲気みたいなのは、その文化的土壌もよくわかっていなかったので大変勉強になった。

序文にある通り「人はセクシーでありたい」と願っている。ではそのためにはなにができるか? そこにセクシャリティのポイントがある。そのためには男女の垣根を越えて個人がお互いに尊重できなくてはならない。本書の言わんとしていることは、そういうヒューマニズムの淵源に繋がっているのだ。

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異装のセクシュアリティ
石井 達朗
新宿書房
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余談

というか背表紙にディヴァインの写真がある時点でそういう内容だと気付って話だ。