デヴィッド・ドゥグラツィア「動物の権利」

読んでから随分時が経ってしまったのだが、思い出しながら書く。(そんなこんなで溜まってるのが、あと二冊ほどあったりする)

まず本書はズバリそのまま「動物の権利」をどう考えるか? という内容である。とは言うものの自分はクジラさんがかわいそう!という理由から読んだわけではない。動物愛護にはあまり興味がないし、むしろクジラ肉は大好きだ。そうではなく、動物を愛護するということが人間社会にどういう影響を与えるか、ということが気になっていたからだ。動物愛護を究極まで推し進めれば、我々は動物を資源としてみることはできなくなってしまうだろう。

本書の基礎となる考え方は、ある一定以上の感覚(たとえば痛覚)を持つものには、それを苦しめるようなことをすることはいけないというテーゼである。だからとりあえずは植物はOKということらしい。
自分以外の他者の苦痛を、それがどんな生物であろうとも最小限にしてゆく理念。これはまあ、ある程度は直感的に納得できる。誰だって矢ガモを見れば、その痛々しさに悲しみを喚起されるだろうから。
また動物虐待を容認すれば、その延長線上として人間への危害も当然考えられる。
なので、ある程度の動物愛護は必要なのだということは論理的にも直感的にも受け入れられる理屈だろう。では、そのある程度とはどこなのか? この論議となると大変やっかいだ。

まずもって我々は食料として動植物を摂取する必要がある。それも経済的に大量生産することで、ようやく人類全体の胃袋を満足させることができる。
だからこそ本書で描かれているような書き方、家畜の鶏や豚をアウシュビッツで虐殺されたユダヤ人のように擬人化するのは、ちょっとアンフェアだと感じた。もちろんそれを承知で書いているのだろうが、こういうレトリックが過激な動物愛護を生む土壌になっているとも言える。しかもこういう現場で働いているのは、経済的に最下層の労働者である場合が多いのだ。
これらの問題は、さまざまな事象が複雑に絡み合っている。私個人としても、どれがよい方向なのか簡単に意見を言うことができない。

また本書では触れられていないが、感覚を有し、思考していると思われるような人工知能ができたとしたら、我々はどう扱えばいいのだろうか? 人間並とはいかなくとも、チンパンジー程度ならそれを上回る人工知能ができてもおかしくない未来はすぐそこにきている。
生命のありかた、そして知能のありかたは断続的にではなく連続的に連鎖している。どこまで、どれだけの権利を与えるべきか。これ自体が人間のエゴそのものなのだが、やはり決めなくてはならないだろう。
一歩間違えば社会的に有用でないとして、能力を劣っている者を殺してしまうような優生学にも繋がりかねない。結局の所「動物の権利」ではなく「人間の権利」を考えるために本書の問題提起と真剣に向かい合わなければならないのだ。


余談

ちなみに本書は図書館で借りたのだが、後半の2ページほど切り取られていて愕然とした。
本さんがかわいそう!である。本にも権利を!