夏目漱石「草枕」

twitterで高校生たちが夏目漱石を読んでいたことに影響されて、ずっと積んでいた草枕を崩しにかかった。
実は漱石は、トリストラム・シャンディの批評と夢十夜くらいしか読んでおらず(なんという偏り!)、あとは坊っちゃんを朗読で聴いたくらいなので、文章でがっつりと読むのはこれが初めてとなる。

数ページ読むだけでわかるのが、やはりここに現代日本語の原点があるのだなということだ。中国の故事などを巧みに織り込みながら、難しい漢字は多いけど流れるように読めるのは流石だ。

しかしこの草枕という作品、ストーリーがあるようなないような評しづらい小説だ。読んですぐに連想したのが、頽廃的でないユイスマンスの「さかしま」だった。ほとんどニートみたいな、だけど無駄に知識がある主人公が、ひたすら蘊蓄を述べてゆくだけというgdgd感。慰み程度に出てくる色恋沙汰のストーリーは面白くないんだけど、この蘊蓄と文章のうまさで読んでしまう。

もっとも読んでいる自分も自分で、若冲の鶴が出てきたりすると、伊藤若冲キターとか心の中でニンマリしながら読んでいるのである。うんうん若冲の鶴はいいよね、俺も好きなんだ、とうなずいてみたり。
というかここに出てくる絵とか小説とか、当時のどのくらいの人がわかって読んでいたんだろうという疑問が浮かぶ。今だからこそ参考にしたネタはすぐにわかるけれども、明治時代にここまで知っている日本人は一部の文化人をのぞいてはほとんどいなかったんじゃないだろうか。間違えて引用されていることからも、それがうかがえる。

草枕は、そんな漱石のひけらかしに満ちたニート小説なのだ。こんなの勉学にいそしんでいる時に読んでも全然面白くないんじゃないかなと思う。だけれども、それなりに知識がありながら日々を悶々と過ごしている人にとっては、妙な共感を味わえるのではないだろうか。

また途中でトリストラム・シャンディ(もちろんこちらもキターである)に触れていることからも、漱石曰くの「頭も尻尾もないなまこのような感じ」を目指そうとしているのかもしれない。