村井則夫「ニーチェ――ツァラトゥストラの謎」

この内容の濃さ、そして突っ込みの方向と度合い、もはや新書ってレベルじゃない。
本書は、哲学書としてのツァラトゥストラを解読するというよりは、むしろ悦ばしき知恵としてツァラトゥストラを哲学書以前の神話的小説として読み解こうという本だ。それだけに哲学者ニーチェの分析という視点で読み始めると、肩すかしをくらうかもしれない。

まず引き出しの多さに驚かされる。
遠近法主義では光学を論じたり、奇妙な登場人物をアルチンボルド肖像画を取り出して見せたり、ヒュー・ケナーの「ストイックなコメディアン」をひいて「ユリシーズ」と比較して見せたりと、多芸すぎる。また結合術(アルス・コンビナトリア)をはじめとして、ある種の専門用語がバシバシでてくるので、わかる人には愉快なんだけど、初心者にはさっぱりだろう。このあたりも新書っぽさゼロである。

一貫して文学としてのツァラトゥストラを論じる文学センスも興味深い。
奇書としてツァラトゥストラを配置し、その源流を古代の風刺小説のジャンルであるメニッペアとするあたりは目から鱗が落ちた。ここでトリストラム・シャンディなども一例として出てくるのも嬉しい。これは複数の視点を持ち込んだ遠近法主義とも関係してくることだが、常に自己否定を突きつけるツァラトゥストラの思想と入り交じり、物語に奇妙な味と読後感をもたらしているというわけだ。

こうして新たな様相を持ったツァラトゥストラが立ち現れる。実に刺激的な内容だ。

ある種の文学はあらゆる誤読、あらゆる解釈に耐え、あらたな果実を我々にもたらしてくれる。自分もいずれ本書を新たな地図として、再びツァラトゥストラに挑むことになるだろう。そのときは初読とはまったく異なる新しい顔を見せてくれるに違いない。


余談

あとがきの一文の格好良さに痺れたので引用しておく。

この「地図」が迷宮の作者ダイダロスニーチェの知恵にいくらかでも迫ることができたか、あるいはむしろイカロスの失墜めいたものであるか、それは読者の判断に委ねたい。しかし本書がイカロスの二の舞を演じていたとしても、その墜落がツァラトゥストラという「太陽」に近づきすぎたゆえだとしたら、本書はそれを名誉と心得なければならないだろう。