フリードリヒ・キットラー「グラモフォン・フィルム・タイプライター」

本書は、グラモフォン(蓄音機)、フィルム(映画)、タイプライターというテクノロジーが、いかにメディアに影響を与えるか、広く言えば人間の精神活動に影響を与えるかを、ラカンの理論等を用いながら具体的に例証してゆく本である。

たとえば手書きの文章と、キーボードで打った文章と、携帯電話で入力した文章は、同じ人が書いてもかなり違うものとなるし、入力ソフトウェアや出力される形式によってもまた変わってくるだろう。そんなことはクドクド説明しなくたって、ブログをせこせこ更新し、さまざまなwebサービスを使っている我々が今一番身にしみて感じていることではないだろうか。
その割にはテクノロジーの進化がメディア(例えば文学)などにいかなる影響を与えているのかを問うている論考というのは意外なほど少ない。ややもすれば精神主義の立場をとる人から叩かれるほどだ。

さてそんな議論を展開するキットラーだが、大いなる先人マクルーハンに負けないインパクトを持っている。
導入にしていきなり、すべてのネットワークが光ファイバーになったらどうなるか?という問いから始まる。答えは「爆弾が効かなくなる」だ。なぜなら銅線ならば爆発の影響で電磁波が混入しネットワーク全体を汚染する可能性があるが、光ファイバーならば純粋に情報しか伝達しないため安全だからである。こんな硝煙のきなくさい臭いが漂うよう話から始まるものだから、度肝を抜かれる。あとがきによれば「塹壕電撃戦と星々の壮大なドラマ」のようなキットラーの世界に拉致されることになるわけだ。

さて、本題。
まず蓄音機の誕生は、ベストセラーを流行歌に変えてしまった。ポピュラーミュージックが本を読まない人たちの文学になったのである。流行歌がラブソングばかりなのも、ロマンスに成り変わっていると考えればうなずける。これは蓄音機登場以来変わっていない傾向のようだ。

そして映画の出現において、人々は動きが静止画の連続であることを知る。そしてその影響が無意識の領域へとあてられ、精神分析的へと接続させられるあたりが読みどころだ。

個人的に気になっていたのはやはりタイプライターの章。予想以上に面白かった。
まず女性タイピストの激増と盲人タイピストの登場によって、これまで男性権力者マジョリティのものであった文章の世界が、マイノリティにもひらかれるようになる。子女のピアノ教育がタイピング技能の向上に関係している、なんて記述も見逃せない。
また思考の延長としての機械として登場したタイプライターは「独身者の機械」となり、哲学思想や、具体詩に影響を与えていった。
また全体的に、テクノロジーがひとつの人工知能のような存在として描かれていて、そこにチューリングの話などが絡まってくるのだ。こうしてキットラー第二次世界大戦を、タイプライターの戦争として描き出す。

そして最終的に導入へと戻り、このイノベーションのまさに延長線上にあるネットワーク化へのヴィジョンを予言しているのである。
こうしてグーテンベルクの銀河系にメスを入れながら、すみやかにネット社会へとつなげているキットラーは、まさにポスト・マクルーハンと言うにふさわしいだろう。