バーバラ・M・スタフォード「ボディ・クリティシズム」

ようやく読み終わった。これはすさまじい大冊。
ジャンルとしては一応、身体論、視覚文化論である。しかし読んでいるうちに、そもそも何についての本なのかわからなくなってくるほどの博覧強記の網羅ぶり、とにかくインスピレーションを刺激しまくる内容だ。一章で普通の本の一冊に相当するほどの濃度なので、読了後、何かの全集を読み終えたかのような達成感すら感じた。

高山宏による訳文も読み所。まるで幻想文学を読んでいるかのような気にさえなってしまう圧倒的密度。完全に高山語に翻訳されていて、これ原文どうなってんの?的超訳が連打される。こういう訳を嫌う人もいるとは思うけど、あの文体に慣れてしまうと中毒性がある味の濃さだ。「非合理に演算で見参」「伝染るんです、点描の皮膚科 」なんて見出しにも注目して読むと楽しい。

で肝心の主題は、ひとことで言うと「見えざるモノ」をいかに「見える化」してきたか、である。
主に18世紀のアートと医学図案をとりあげ、200点を超える大量のヴィジュアルを見せつけることによって例証してゆく。そしてAとBが似ているという視覚のアナロジーを駆使して論証をを行う、これがスタフォード流というわけだ。
性格、情動、病理、知識、記憶……といった本来見えないモノを、ボディという見えるモノにマッピングすることによって、近代というのがいかに視覚文化に依拠していたかということを見てゆくことになる。その過程で人々の認識や文化がどのように形作られ変化していったかを分析してゆくのである。
それでは自分なりにまとめてみた内容を、章ごとに綴ってゆくことにする。

1章 切断 DISSECTING

解剖学図案とピラネージの描く廃墟を比較して、その類似点から議論を広げてゆく。どちらも本来ならば皮膚や外壁によって覆われているものを、切り開いてあらわにしているというわけだ。
またラファータの観相学や骨相学によって、ほくろから飛び出る毛でさえも欲望の現れであるという読みにさらされた。更にリヒテンベルクによるパソグノミックス(動態観相学)を並べることによって、人間の内部が外部と対応しているという信念をえぐり出す。これらがギブスンのアフォーダンス理論を先取りしているという指摘も忘れない。
ここには見えざる何かは、必ず見える何かと対応していて、視覚的に展開されて完全に理解しうるという、狂気めいた確信がある。ルネサンス魔術や世界劇場という概念なども、そういう系譜に属するのだと思う。
読んでいて、特にフランセス・イエイツの「記憶術」「世界劇場」の二冊を強く想起させた。

2章 抽象 ABSTRACTING

アートがネオプラトニスム化で世界を解読する鍵となったというところから始まり、抽象するという行為が病や縫合術と結びついてくる。そこにおいて百科全書というものが現れ、アルファベットオーダによって世界をバラバラにする。
そのバラバラのイメージから奇形、怪物論につなげてゆくのがスタフォードの凄いところ。人々は不完全なものや病的なものに悪魔的イメージが重ねてゆく。しかしバロルスキーの「とめどなく笑う」によると病苦のカリカチュアカーニヴァル的笑いを誘うモノだったけど、スタフォード的にはセラピー的効果もあったのでは? と問う。
一方でレッシングのように、不完全なものの美をすべて否定する流れも常にあった。本書では、常に、完全なものと不完全なものの対比対立というのが論議の背景にあることには注意したい。
本章の最後で、逸脱、脱線した精神を表象するモノとして大理石のマーブル模様を取り上げている。これは非常に面白い論議だ。もちろんマーブルといえば、トリストラム・シャンディにも登場するマーブル・ページである。また色彩のジャバウォッキーとも評している。
ロックは人間精神をタブラ・ラサとしたけど、ライプニッツ的な読みをするならそれは大理石、マーブルとなる。つまり千差万別なマーブル紋様こそ、人間精神を表すにふさわしいというわけだ。
本書では言及されてないけど、マーブルは肉の断面にも似ている。切り株映画もボディ・クリティークの一部として扱えるかもしれない。

3章 着想 CONCEIVING

着想とは着床であり、精神的なモノと肉体的なモノは産出という意味で見事に一致する。そこにおいて奇形児のような肉体的不具が精神的不具として扱われてゆく。その逆もまたしかり。
ラファーター曰く、天才の創造物はすべてを溶かしてから結合させるので全体性が生まれる。一方、断片的で野蛮なるものゴシック的なものは後にロマン派へと受け継がれていき、これが新古典主義との対立を生み出していった。
また観念(コンセプト)=受胎(コンセプション)でもある。受精の精は精神の精なのだ。
ここで再びグロテスクな着想である怪物に立ち戻る。怪物とは渾沌、キメラ的、交雑種は狂いのきたアルス・コンビナトリア。西洋知の半面がここで爆発している。また怪物(モンストゥルム)の原義は「見せる」であり、まさに「見世物」であった。そして、どこにも収まらないモノを入れる箱にも関係があるようだ。(これってリンネのパラドクサのことか?)
さて、ここでも完全なものと不完全なものとの対立がある。そえれは18世紀西洋における二つの着想の起源で、ギリシャ的なものとローマ的なもののが常に対立しているということだ。

ギリシャ的:イデア的、純粋、自然、秩序
ローマ的:怪物、交雑、人工、渾沌

この対立は本書全体に見られる構造である。
ローマの廃墟を愛したピラネージ。思えばグロテスクもローマの廃墟を評するために作られた言葉である。

4章 徴化 MARKING

徴化というより、英語のマーキングのほうが意味が通りやすいかもしれない。
まずは皮膚に現れる病の徴候が題材になる。芸術も皮膚病医学も共にスティグマを見せたり隠したりする作業という共通点がある。その徴を隠すモノとしての化粧は皮膚をフラットな白へと変えてしまう。
逆に徴を利用したのが、点描のスーラだというわけだ。
皮膚に現れる病として猛威をふるったのが天然痘で、それのもたらす感染力が人々に恐怖を植えつけた。ジェンナーが免疫療法をみつけるも、牛痘の治療なんかでは、牛の血が混ざって牛が生まれるんじゃないかと心配されたほどである。
病が伝染するなら、心や欲望も伝染、遺伝するかもと思われるようになってくる。この時代、妊娠中の母の欲望が子に伝染するのをたしなめる戯画が数多く書かれた。しかしロマン派のブレイクにきて、ようやく個性的な徴を長所とする動きが現れた。
徴としてインパクトがあったのが黒人のアルビノ。このまだら文様に芸術のコントラストの類似を見出したのが、かのホガースである。斑の美学がここに誕生する。
さて、ここでまたひとつの対立構造が指摘される。それはロマン主義には新古典主義との対立である。

新古典主義:衛生、連続体、グロテスクをみとめない
ロマン派:汚染、個体、グロテスクをみとめる

現代画家のフランシス・ベーコンは、このロマン主義的な見方こそ「生きる」ってことなんだ、と指摘した。またノヴァーリスにおける、ロマン主義代数学との類似の指摘も忘れない。このあたりを詳しく知りたい人はノイバウアーの「アルス・コンビナトリア」を読むと良いだろう。
またマニエリスムロマン主義の共通点として、

を挙げる。特にスタフォードはヴィンケルマンが「それそのものとは違った意味をもつ」と定義したアレゴリーに注目する。断片、分割された固体、調和不能な省略部分をさらけ出すアレゴリー的手法こそ、まさしくポストモダンの現代に受け継がれていると言う。
確かにTV、コンピュータによる画像操作、デジタル編集術は、断片化・モジュール化が特徴だ。

5章 拡大 MAGNIFYING

レンズの拡大作用によって世界が幻想的になってゆくというのが本章の眼目。
視覚というと本物を見ることだったんだけど、顕微鏡やらの光学装置を通してさまざまなアナモルフォーズ映像を見るうちに、視覚がどんどんと幻想世界に突入する。そこにおいて知と知覚の混同がおこったわけだ。観念的なものと実在的なものの区別がつかなくなってくる。
ここでスタフォードはこうした視覚のイカサマ作用を詐欺師の術と結びつける。またキルヒャーの発明やカメラ・オブスクラの作用は、まさに現実を幻想化する。そこにおいて光学魔術はよりマニエリスムめいてくる。
さて本物と偽物の違いについては、デカルト以降大いに論議されることとなる。なにが本物で、なにを偽物とすべきか? デカルトは自分の思念以外は全部偽物とするべきだと言った。ロック、ホッブズら経験主義の人々においての本物は、もうひとつの偽物でしかなかった。
バークリーは存在とは知覚だと言い切る。ということは、偽物でも知覚してしまえば実在してしまう。こうしてあらゆる感覚的体験が仮象のものとなり、果てには幻像になってしまった。これに伴いアートもまたファンタスマゴリアと化してゆく。

6章 感覚 SENSING

視覚がイカサマに浸食されてゆくなかで、見えざるモノがより重要視されるようになる。
たとえば聴診器の発明によって心が音にマップされたりして、これらのイノベーションから肉体が心を作っているのだと思われるようになった。
続いて神経の発見がプネウマ理論を再燃させ、見えざるモノの重要性はさらに増すことになる。空気、そこを伝わるモノ、気象学がキーワードだ。つまり視覚ではない感覚にフォーカスが当てられ、アロマテラピーやグルメといった、味覚と嗅覚の文化が誕生する。こうして見えざるモノがクリティークの対象となり、精神や病と対応づけられる形で論じられた。
こうして見えざるモノはとらえどころのない流体だとされるようになり、思考さえも流体として扱われるようになる。
ついには、その見えざるモノさえも「見える化」しよう観測しようという欲望は、夢分析を生む。その流れのなかで登場するのが、催眠術の元祖メスメルだ。メスメルが上手かったのは見えざる動物磁気による治療のさいに、桶型の治療器を作り「見える化」したことだ。こういったタッチングヴィジョンに人々は熱狂したのだった。
ネオプラトニスム的なイメジャリーは動物磁気だけに留まらず、さまざまなものがシュードサイエンスと結びつく形で広まる。こういった見えざるモノのインパクトは、デカルトニュートン的な外に向けられた数量化では、内部的な原理を解き明かせないことを示していた。
数量化を行うだけの科学が見えざる原理を解き明かせないという落胆と、それを「見える化」する形で疑似科学が広まるという結論は、現代の「水は語る」の論議と完璧に対応している。このあたりは18世紀から進歩がないと言うことだろう。

総括

この本が18世紀美術史に新たな光を与えているのは、カビの生えた古くさい頭ではなく、現代的視点で再検討しているからだ。子供の頃からCGに親しんでいる世代からすると、わりとすんなりと受け入れられる理屈だと思う。
それにしても、この本はどう読むべきなのか、いわゆるジャンルに困る。身体論なのか、クリティークなのか、表象文化論なのか……
逆に言うと、読んだ人によって刺激される部位が違うのかもしれない。

スタフォードの言い分に説得力があって、かつ信用できると感じるのは、単に大量のヴィジュアルを提示しているからだけではない。全体からにじみ出てくる、多様性の受容に対する愛のようなものがあるからだろう。
たとえばネオプラトニスムは多様性を説明するには役だったけど、完全なるものを指向するがために結局は多様性を破棄するしかなかった。そういった規律の中を、するりと抜けてくるようにグロテスクなモノが立ち現れてくる。
スタフォードが還元主義に限界を感じているということも、これとまったく同じこと。そして、これは21世紀の科学が抱えている大問題でもある。もはや一部を見ていてはなにも解決しない時代がきている。
そういう文脈においても、全体を見なくては部分を見ることができない視覚文化論は、さまざまなヒントを与えてくれるに違いない。

余談

もっと簡潔にまとめようと思っていたのに、とてつもなく長くなってしまった。
やはり章ごとにアップしていけばよかったかな。

参考リンク

シロクマさんによる、「手ごたえ」「手ざわり」で読み解くボディ・クリティシズム
「手ごたえ」の消えた芸術 : Digressions