ロラン・バルト「S/Z」

バルザックの中編「サラジーヌ」を構造主義的、記号論的方法で徹底的に分析した批評の実践である。ちなみに「サラジーヌ」は本書の付録としてついてくるので、読んでない人も安心だ。

どのくらい徹底しているかというと、ひとつひとつのセンテンスを精読し、それぞれを解釈、意味、象徴、行為、記号的、参照、といったコードに分解して分析してゆくのだ。
ようするに実際に読んでいるときには、意味を読み飛ばしたり、無意識に理解しているところ、また再読により意味が変化するところ、人によって解釈を変えてしまうであろうところ、明示的な意味、暗示的な意味、立ち現れうるあらゆる意味をセンテンスごとに列挙してゆく。
本編より分析のほうが長いのだからすさまじい。このことからわかるように、あらゆるテクストはそれ自体の持ちうる意味より遙かに広い意味を読み取ることができるのである。

「サラジーヌ」という作品は一種の叙述トリックを伴っている作品だ。本書でも、信頼できぬ語り、ミスディレクションの記述に関しては丁寧に分析していることからもロラン・バルトが「サラジーヌ」における叙述トリックに気を遣っていることは明らかである。というより実践として「サラジーヌ」をとりあげていることも、ここに理由があるとしか思えない。
つまり、あらゆるテクストは大なり小なり叙述トリックが使われているということだ。
これはちょっと考えてみると自明な話で、たとえば「部屋に入ったとき、その人物は椅子に座っていた」と書いてあったとき、読者はある程度限定された部屋と椅子を思い浮かべるだろう。その物語の時代背景や、人物背景から、書かれていない事実を想定するわけだ。
そもそも想定できなければ、テクストにすべてを記述しなければならず、そんなことは不可能だ。いわば、この人間に備わったアブダクション能力が、あらゆる文作作品を成り立たせている。このことはケネス・バークの「動機の文法」でも少しふれられている。
同様に「その弁護士は革張りの椅子にでっぷりとした体を広げ、威厳のあるポーズで葉巻をくゆらせていた」と書けば、9割方の読者は、この人物を男性だと想定するだろう。いやそうでなくてはテクストは読めない、こんなことをいちいち疑っていたのではテクストは成立しない。想定の判断停止によって、テクストは読まれてゆくのだ。
本書でも、このようなコードの読解によって読者がどう考えてゆくかが精密に描かれている。

さて構造主義的、記号論的分析は、どんな細かい意味内容も見逃さないぞという緻密な精読には恐れ入るばかりだ。しかし欠点として、分析した、だからどうした、という感じが残ってしまう。その先へどうつなげていけばよいのか、広がりをもてにくいのである。
本書にしても「だからどうした感」をぬぐい去ることはできず、やってること自体は面白いのだが、この手の実践をもう一冊読みたいかと問われれば微妙かもしれない。
ただこういう方法論があるということは絶対に押さえておくべきだし、また方向性自体が悪いとは思えないので、一読はしておいたほうがよいだろう。

個人的にロラン・バルトは「テクストの快楽」を読んだときに、こいつは信用できると思って以来、主著を読み続けている。本書でも「読書はいくつあるか」という章でその哲学を語っていて、再読は消費ではなく新しいテクストを獲得するためにあるのだと断言している。
とすれば「だからどうした感」に対して屈服するのではなく、本書でばらまかれた意味の断片を拾い集めて、新たなテクストを再生してゆくことこそが読者に課せられた使命なのかもしれない。

すごい本なんだけど、すごすぎて読むのが大変。

余談

なるほど「S/Z」ってそういう意味だったのか。