ハーマン・メルヴィル「白鯨」

海洋冒険小説?NO!奇書だ。
海の男の物語なんて読んでられない、と思っていたものだが、高山宏の「メルヴィルの白い渦巻き」という白鯨論を読んで、ガツンと殴られたような衝撃があった。どうやら白鯨はとんでもない小説らしい。高山宏の文章の特徴でもあるのだが、紹介する本がことごとく凄そうな気がする。実際、白鯨は凄かった。
始まり方からしてヤバイ。主人公が登場するかと思いきや、鯨の語源についての講釈が始まる。あれ?海洋冒険小説はどこ行ったの?ってなもんである。しこたま蘊蓄が披瀝された後に、物語は始まる。それも唐突に、あの有名な一説が。

Call me ishmael.

私をイシュメイルと呼べ。

そして物語が始まるわけだが、その区切りに、何度も鯨学という蘊蓄全開の章が挟まれるのである。書物を鯨に喩えた書誌学やら、鯨の種類一覧やら、もう鯨の百科事典である。まるで鯨を学ぶことが世界を学ぶことであるかのように。そこにこそメルヴィルの情熱が透けて見えてくる。
そう、この鯨学こそが白鯨をただの海洋冒険小説から逸脱させ、普遍性を持った百科全書的ポストモダン小説へと昇華させている。エイハブ船長が白鯨に復讐しにでかけます的な粗筋だけ知っただけでは、決してその本質に迫れない。映画など様々な媒体に翻案されているが、それはあくまでストーリーの翻案でしかない。なので、白鯨を知るからには完訳されている本にあたってもらいたい。

中には純粋に海洋冒険小説として読むために、鯨学は省くべきという人たちがいる。有名どこではサマセット・モームとか。実際、ペーパーバックでは省かれている版もあるらしい。もっとも冒険譚を楽しんで読める人にはそれでいいだろうが、そもそも色気のない海の男の物語なんて興味ないよという人もいるだろう。また時が経てば鯨狩りの小説なんて受容されなくなる可能性だってある。
それでもなお白鯨が読まれるべき小説であるためには、鯨学とセットになっていなければならない。そういう俯瞰的視点で眺めることで、海に出て鯨を狩るというだけの小説が、いかにして普遍的な小説となっているのかを理解することができるだろう。

つまり白鯨という小説は、(高山宏が言うように)ダンテの神曲と同じく小説の姿を借りた百科全書なのだ。そして百科全書とはあらゆるものの隠喩である。そこには人々が感じる想いと、文化が抱える知と、どうしても逃れられないパラドックスが記されている。
広大な海の真ん中に遊弋する白い色をした鯨を探しにゆく、それは世界(=自己)探求の物語なのである。

とりあえず面白い白鯨論をふたつ。

「アリス狩り」に収録されている白鯨論「メルヴィルの白い渦巻き」は高山宏修士論文

白鯨の奇書っぷりがモザイク文様として浮かび上がる!