四方田犬彦「白土三平論」

いつものように図書館に行った際、返却コーナーで見つけ衝動借りした本。
思えば子供の頃、まわりの同級生が「ペガサス流星拳」を真似ているなか、一人「変移抜刀霞斬り」を覚えていたものである。さすがに著者の四方田犬彦みたく「微塵隠れの術」は真似しませんでしたけども。

というわけで「カムイ伝」「忍者武芸帳」「サスケ」などで有名な白土三平の本格的な評論である。前書きによると、一冊にまとまった白土三平論というものは数が少ないらしい。漫画批評が当たり前になった現在において、しかも極めて批評性の強い白土三平においてこの状況というのは少し寂しいものがある。

本書は初期から後期にかけて、広範に作品を扱っているので、相当の白土三平ファンでないとさっぱりわからないだろう。私も初期の一部や、後期の方は全然わからない。もちろん簡単な作品解説を併せて書いてある親切設計なのだが、やっぱり漫画なので絵の感じやコマ割りの感じを知っていないと厳しい。おかげで未読作品の評論部分はいまひとつピンとこなかった。

それにしても長大なタイムスケールで白土三平作品を眺めると、ある種のテーマが浮かび上がってくる。無論、著者のねらいもそこにある。
私は忍者を一種のハッカーとして読み替えるのも面白いかも、などと考えながら読んでいた。白土漫画の忍者は武術に長けているだけでなく、生き延びるための生活の知恵を数多く知っている。ただハッカーと違うのは、その知識がクローズでなければならないということである。奥義を見せるときは相手を殺すときであり、万が一やり損ねれば逆に殺されてしまう。信頼できぬ者へのオープンは死に繋がる。
となるとむしろ技術革新にしのぎを削る、イノベーション競争に近いかもしれない。

とはいえ白土三平といえば忍者だけでなく、百姓も活躍する。そして、えた非人などの差別を取り扱っているところも忘れてはならない。これらが渾然一体となって大きな物語が繰り広げられてゆくわけだ。
そして百姓を弱者という立場に置き、横暴な権力者や、忍術を駆使する忍者を活躍させながらも、最後に生き残るのは決して武術に長けた者でも知略に富んだ者でもなく、地道に畑を耕す者達なのだ。
イノベーション競争の犠牲者、アブジェクションされた者たち、踏みにじられ軽視されているものにこそ人間の根源の力が宿っている。それらが超越した能力である忍術と対比することによって、明確に浮かび上がってくる。読者は否応なく、その姿を何度となく眼にするだろう。

さて、本書の後半で四方田犬彦は以下のように語っている。

二〇〇〇年代の読者たちは、もはや白土を歴史の不可逆的発展を説く説教師とも、人間の深層心理に宿る神話的な欲動を描く寓意作者とも考えていない。彼らは忍者カムイの組み立てフィギュアに熱中し、コミケットで白土漫画のパロディ小冊子を売りさばくことに忙しい。
(中略)
そこには先行する世代が重力のように抱え込んでいた歴史という観念もなければ、自然と文明、神話と現実という、白土が終生にわたって拘泥してきた主題への積極的関心もない。

もちろんそれはそうなのだが、特定の歴史と結びつけずに一般化して読むことによって、前の世代が読みえなかった、また白土三平自身も明確には意識しえなかったメッセージをくみ取ることができる可能性を持っているのだと思う。それだけの力を白土漫画は内包しているに違いない。私自身、ときに残酷で容赦のない描写から、なにかを得たような気がしてならない。

これから再び、新たな世代によって読まれ批評されてゆくことを大いに歓迎したい。

「われわれは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」
とは忍者武芸帳の主人公である影丸の名台詞だが、私は近くから来たので、遠くまで行きたいと思っている。

追記1

実は私の名前は白土漫画の登場人物からとられている、らしい。
そのまんまじゃないけど。

追記2

ちょろちょろと読み直して、やっぱりいいなあと思ったキャラ。
男:四貫目
女:スガル
犬:シジマ
っていうか犬はシジマ以外に選択肢がないけど。