J・L・オースティン「言語と行為」
いわゆるスピーチアクト理論の始祖で、昨今でもよく眼にするパフォーマティヴとかコンスタティヴとかいう概念を提唱し分析したオースティンの名著である。ちゃんと勉強しようと思って読んだ。
オースティンは、発言には事実確認的(コンスタティヴ)なものと行為遂行的(パフォーマティヴ)なものがあるという所からはじめる。(事実確認的は叙述的とも訳され、ぶれがあるため以下はカタカナで統一)
コンスタティヴ:事実そのものを確認するため、真偽が決まる。例)「カラスは黒い」
パフォーマティヴ:それを発言することによって行為が成り立つもの。真偽は決まらず、適切/不適切が存在する。例)「あなたを内閣総理大臣に任命する」
オースティンはパフォーマティヴな発言に注目して精緻に分析を試みる。その結果、コンスタティヴな発言も実はパフォーマティヴなんじゃないか、という結論に至る。
「法隆寺を建てたのは聖徳太子である」というのは一見、真偽がハッキリしたコンスタティヴな発言に思えるけど、「いや建てたのは大工だ」とも言えるし、実は聖徳太子は歴史上存在しなかったんだ!なんてことになるかもれない。聖徳太子ならまだしも「法隆寺を建てたのは私である」という発言をしたら、上記の発言と文法上は同じなのに、私は狂気であるという表明の遂行文であることにもなってしまう。
結局の所、上記の文は「法隆寺を建てたのは聖徳太子である(と認める)」というパフォーマティヴな発言なんじゃないか?ということである。
それ以外にもパフォーマティヴを更に細かく分類し、どういう機能があるのかを分析している。
全体的にちょっと引っかかったのは、本書には、発言する側とそれを受け取る側の明確なモデル化が欠けているという所だ。オースティンの視点は、発話者にあるのか、受け手にあるのか、はたから聞く第三者にあるのか、はたまた神にあるのか、いまいちハッキリしない。
その辺がしっかり示されていた方が理論として使いやすいし、明確になるだろう。理論を継承して発展させたサールはそういうことやってるのだろうか?(まだ読んでないので、わからない)
なんにつけてもパフォーマティヴに眼をつけたのは慧眼である。ただ精密なだけに、難しい部分もあり読むのが大変だ。まるで知らないという人は下で紹介するジョナサン・カラーの「文学理論」を読んでからのほうがいいだろう。
ジョナサン・カラー「文学理論」
で、なんでスピーチアクト理論が重要なんじゃないかと思ったかというと、ジョナサン・カラーの「文学理論」を読んだからだ。文学理論の入門書というと、各種の理論が紹介されているという本が多い。そんな中、この本は文学理論なんて必要なのか?など、もっと高い視座から紹介しており、はじめての人にはもってこいの内容になっている。ジョナサン・カラーはもともと堅実な書き方をする人で、本書の書き進め方にも信頼が置ける。
逆に言うと一つ一つの理論にはあまり肩入れしていないのであるが、オースティンのパフォーマティヴだけ、これ重要と言わんばかりにピックアップされている。
つまり、全部パフォーマティヴなんじゃないの?という話は文学にそのまま適応できるからだ。文学がパフォーマティヴな力を持っているというのは、まあ文学理論家にしてみれば非常に心強い説である。と同時に力の持つ二面性という危うさも孕んでいる。
その辺を発展させたのがデリダであり、ジュディス・バトラーである。バトラーは「ジェンダー・トラブル」で、男女の区分はコンスタティヴじゃなくて、パフォーマティヴな発言によって、結果コンスタティヴな男女区分が作られたんじゃないの?みたいな話をしている。
そんな文学理論を取り巻く状況を概観できる上でも、とりあえずこれ、という本である。
文学理論って何よ?って人はまずこれ。