彌永信美「幻想の東洋」

題名からしバルトルシャイティスの「幻想の中世」を思わせるが、内容はむしろ「イシス探求」だ。

普遍を追い求めた西洋が、東洋をどのように対峙していったのかが本書のテーマである。
まず東洋とは「西洋でない」ことを表していた。

さまざまなトピックがあるのだが、興味深かったのはキリスト教が世界をどのように「読んで」きたかである。
キリスト教はその一神教の教義からわかるように、すべてはキリスト教のためにあり、黙示録へ向けてあまねくキリスト教化さえなければならなかった。世界の始まりから終わりまで、キリスト教で染まっていなければならない。そこに歴史修正主義ともとれる普遍主義が立ち現れてくる。
だからギリシャ哲学でも、プラトンのような親和性が高い思想はキリスト教にとりこまれていった。その結果、古代哲学はキリスト教の一形式であるが、それは神を正しく理解しなかった故に完全なものではなかった、と解釈された。ようするになんでもかんでもキリスト教にこじつけようとしたわけだ。
そして旧約聖書新約聖書の予表でるとして類似関係を見出そうと血眼になった。たとえばノアの洪水は洗礼の水の予表であるといった具合だ。こういった読みは予表論とか予型論などと呼ばれている。
これらはハロルド・ブルームが論じるところの強い読みによる誤読と言って間違いないだろう。

そうして西洋は強い読みをもって東洋に乗り込んでゆく。そして東洋の文化(仏教や神話)の中にも、ありもしないキリスト教を読んでゆく。その西洋によって見出された東洋が、すなわち幻想の東洋というわけなのだ。

そういう論理展開がなされるので、単なる歴史・文化の読み物としてだけではなく西洋思想の根幹を探り当てる旅となっている。貴重な資料から明かされる意外な発見もたくさんあるので、何かしら引っかかった人は目を通しておくといいかもしれない。

バルトルシャイティスの本はとにかくワクワクする。