ウィリアム・エンプソン「曖昧の七つの型」

20世紀初頭のイギリスの文学理論家ウィリアム・エンプソンの代表作。
エンプソンはI・A・リチャーズの弟子であり、いわゆるニュークリティシズムの流れに属する。
ニュークリティシズムというのは文学批評理論の鼻祖みたいな感じで、その後は他の批評に吸収合併されたというような形で取り扱われている。だが別にニュークリティシズムという学派やメソッドがあるわけではなく、印象批評でない分析的なやりかたで批評しようぜ、という流れだと思った方がよいようだ。だいたいエンプソンとケネス・バークとノースロップ・フライが全部ニュークリティシズムとか言われても困っちゃう。

とはいえI・A・リチャーズはいわゆるニュークリティシズムの代表格なので、ニュークリとか略しちゃう人には必読の書だろう。

本書は曖昧に関する本だ。英語の言語セットの関係性を批評の核に据えた論理展開を行っているので、日本語に訳せないのだ。そんな本質的に翻訳不能なのにもかかわらず、なぜか二回も訳されている、しかも二年続けて……なんで?

さてエンプソンは曖昧を分析した結果、それを七つのタイプに分類した。いかに一覧を示す。(自分なりに多少わかりやすくしてある)

  1. 語あるいは文法構造が同時に数個の効果をもつ場合
  2. 二つのあるいはそれ以上の意味が融け合って一つの意味になる場合
  3. 二つ以上の意味を持つ語の各意味が、コンテクストの中でともに適切である場合
  4. 文章の意味が二つ以上あり、それぞれの意味が他と一致せずに複雑な心理状態を明らかにする場合
  5. 比喩が正確にあてはまる対象をもたず、二つのあいだで宙ぶらりんになり、一方から他方へとうごいているような場合
  6. ある文章が、類語反復や矛盾を引き起こし、結局なにひとつ述べてない場合
  7. 語の二つの意味が、コンテクストによって限定された二つの対立する意味をなし、基本的分裂を示している場合(5に似ているが、対立したまま)

主に分析の対象となるのは、詩である。シェイクスピアジョン・ダン、ポープ、ドライデンといった大物の詩に曖昧さから来る美しさがあると評する。できればこれら大物の詩を原文で読んでから本書に挑んだ方がよいだろう。(なまけものなのでそんなことはしてません)
英語はわからないけど主旨は知りたいという人は、各章の出だし数ページと第八章だけを読めば、とりあえずはOKだろう。
とくに注目すべきは第八章だ。エンプソンの文学とその曖昧の深さに関する熱い思いがあふれている。たとえばこんな調子だ。

われわれが混乱した表現を書き付けたくなるのは、それによって意味がより直接的に伝えられるだろうと思うからである。

本書が書かれたのは1930年、これ以後ポストモダニズムが台頭し、価値や意味を一つに定めない両義性などが重要であることが衆目の知れるところとなった。先鞭をつけていたという見地からも価値ある一冊だろう。

またニュークリティシズムに関わらず、批評理論というと文学を客観的な視点から見るところがなんだか冷たいなあと思う人も多いかもしれないが、第八章の詩に対する熱い情熱を目にすれば考え方が変わるかもしれない。

曖昧の七つの型
曖昧の七つの型
posted with amazlet on 05.10.12
ウィリアム・エンプソン 岩崎宗治
研究社出版 (1985/00)
ISBN:4327480479

本書のトリビア

Accessという語は、十四世紀にはある種の熱病の発作を意味していたとのこと。
仕事でAccessよく使うんですけど、熱病に悩まされないように気をつけなくちゃ。

追記

本書ではシェイクスピアソネットにおける曖昧性、両義性について論じられているが、戯曲の多義性を論じた本として「シェイクスピアアナモルフォーズ」を挙げておく。