グリュックスマン「見ることの狂気」

眼差し、見ることの力学をメインテーマにおいたバロック論。グスタフ・ルネ・ホッケの「迷宮としての世界」をスタートとして、主にラカンの理論に依拠しながら近・現代にも通ずるバロックの視覚世界を分析している。
冒頭に「存在するとは見ることである」という一節が登場するが、これは「見つめるということは、眼に見えないものを見ることである」というラカンの言葉に共鳴している。ここからもわかるように、本書は単なる視覚を扱ったものではなく、見つめる、見ようとする人間の性に焦点を当てている。
目次は以下の通り。

プレリュード「いわく言いがたきもの」
見ることの舞台
窃視あるいはファンタスムの眼
修辞家の望遠鏡I――驚異、熱狂
修辞家の望遠鏡II――無の形象
眼差しえぬもののパランプセスト
フィナーレ「見ることの火傷」

個人的に興味を惹かれたのは、後半で注目される「無をみること」と「重ねてみること――パランプセスト」である。

無をみること

キリスト教が長年、零や無の概念を認めなかったというのは有名だが、バロック時代ともなるとそれを完全に否定することは難しくなっていた。特に数学においてゼロの利用はあまりに便利であったし、一六四三年のトリチェリによる真空実験は決定的だ。
一方で無の状態を排斥しようとする真空嫌悪という思想は、稠密に埋めつくされたバロック装飾に繋がっている。むしろ無をも視覚化することで克服しようとしているかのようだ。
それはジョン・ダンに代表されるバロック詩においても明かで、無や矛盾を徹底的に描き出している。そして、たびたび引き合いに出されているチェザーレ・リーパの「イコノロギア」は眼に見ることのできない概念を具象化したものなのだ。

視覚パランプセスト

パランプセストとは羊皮紙の意味であり、文学理論では以下のような意味で使われる。

テクストの純粋な自律性が否定され、一つのテクストの下にはいくつもの先行するテクストが隠れている(=重ね書きされている)という意味で、この語を用いることがある。
――「文学批評用語辞典」

パランプセストが語られる章では、まずボードレールの「人工楽園」が近代バロックとして引き合いに出され、現代へと接続される。そしてパランプセストの美学として現代美術が俎上に載せられる。キャンバスに不在を上書きした画家、ライナーとキーファーである。同一線上にフランシス・ベーコンがいるのは明かであろう。

これらの絵をカラヴァッジョの「黒い鏡」の系譜として、絵画のパランプセストと捉えるというのは、テクスト中心的に考えていた固定概念をぬぐい去ってくれた。

総括

本書はバロック(文化)論であるがバロック(時代)論ではない。バロキズムという普遍的な狂気にコミットした本だ。
ホルバインの大使の絵に浮かぶアナモルフォーズ、その不気味な死の影を復元する「見ることの狂気」。視覚情報に溢れた現代、改めてバロックの狂気がリフレクションされるような気がする。

見ることの狂気―バロック美学と眼差しのアルケオロジー
クリスティーヌ ビュシ=グリュックスマン Christine Buci‐Glucksmann 谷川渥
ありな書房 (1995/09)
ISBN:4756695396

ありな書房の本は素晴らしい造本であるが非常に高価。でも、読んでるとなんだか賢くなったような気になれる。
ありな書房の本を一棚にずらっと並べると見栄えいいっすよ。

狂気の眼差しによって復号されるメメント・モリ